大鍋にみんなぶち込んだら、米津玄師を召喚できた~「君たちはどう生きるか」を見ました~
こんにちは、霊能者のちゃんももです!
ちょっと前の話になりますが、数か月くらい前に「君たちはどう生きるか」を見ました。
当時子供が0歳だったため、子供を誰かにお願いする調整をして映画に行くのはちょっと面倒だったのですが(上映時間も長かったし)、DVDでなく映画館でどうしても見たかったので、一念発起して行ってみました。
見終わった後、やっぱり映画館で見てよかったなと心から思いました。
というのも、映像の迫力や音質の良さ、暗闇で一人で見るという部分において、やはり映画館で見ると没入感が全然違う。誰かの潜在意識にまるごと取り込まれているような感覚で、心地よかったです。
作品そのものが非常に比喩に富んでいて奥行きがあり、潜在意識のいろんな部分が刺激されました。意識のあちこちを蹴られたかのように、しまっていた記憶や感情も随分引っ張り出されたような感覚もありました。解釈の余地も幅広いため、見終わった後もあれこれ考察が止まらず、しばらくぼんやりしてしまいましたが、それを含めて本当に贅沢な時間だったと思います。
さてさて。
それから結構時間が経ってしまいましたが、ようやく一つ二つ、言語化できそうな考察が自分の中から出てきたので、せっかくなので記事にしようと思います。
それは、この話は「宮崎駿監督の、クリエイターとしてどう生きるか」という話でもあるんだ、ということです。
※注意)私はあまり宮崎駿氏やジブリに詳しくなく、「こんなような気がする」という個人的な解釈を書いております。文末が「そう思います」「こう感じます」ばかりだと読みにくいので、言いきりの形にしてありますが、特段根拠はないので、あうまで解釈のひとつとしてお楽しみください。失礼な表現がなければよいのですが。
二人の母は、宮崎監督の「創作動機」の象徴
さて、お話の主題となる二人の母(ヒミとナツコ)ですが、「これは、宮崎監督の創作のモチベーションのことを示唆しているのではないかしら」と私は感じました。
ドキュメンタリーで拝見したところ、宮崎監督は幼少期に母が不治の病を患っており、早くして亡くしているとのこと。
この映画でも、冒頭で母を亡くし(しかも、母が亡くなる瞬間、現場に自分も向かおうとするけれど自分は現地に着くことすらできない)、主人公のアイデンティティ属性の中で最も強いのは「母を亡くした子」というもの。
これは宮崎監督が、創作活動を「母を失った喪失感や無力感をモチベーションにして、創作活動をしてきた」ということを示唆しているのではないでしょうか(「火」というのは、燃えるような渇望だったり、激しい反骨精神だったりもするのかなと)。
作品全体は、どちらかというと静寂のシーンだったり、意味がはっきりとわかりやすく表に出てこない場面のほうが多い印象でしたが、火(ヒミ)が出てくるシーンは非常に躍動感や生命力に溢れている感じもします。
喪失感や渇望感が、反転して、そのような「どうしてもつくりたい」「人に認めてもらいたい」という激しいモチベーションになっているのも興味深いですし、もしかしたらかつては「そのように感じているときだけは、生きている実感が得られた」ということなのかもしれません。
また、印象的なのは、主人公が塔に入った直後に、「母」の形をしたものに触れた瞬間に、溶けてしまうシーン。
「出来損ない」というような表現を確かアオサギがしていたような記憶がありますが、これは「自分の創作物の中で、何とか母に再会したいと、登場人物に投影するなどあれこれしてきたけれど、結局、会いたかった母の姿は、自分の作品の中で見つけることができなかった」ということを示しています。
では、対して「二人目の母・ナツコ」は何の象徴かというと、おそらく「欠乏感ではなく、自分の内側から湧く、作りたいという自然な欲求」なのではないかと感じました。
と、言うのも、まずナツコの人物描写としては、「産みの母に姿かたちがよく似ている」ということ。
自分の中では二人は明らかに異なっている、だけど、似ているような瞬間もあってドキッとしたりもするわけです。これは「母の不在を燃料として作っているつもりだけれど、時々単に『作る楽しさ』『作らずにはいられない欲求』に従ってしまっている自分もいて、だけれど、どっちがどっちか自分では区別がつかない」みたいなことを示しているのかなあと思いました。
また、ナツコは「異性として魅力的」であるというのも、興味深い部分です。
作中には女性が何人か出てきますが、いずれも、姿が子供だったり老人だったり男勝りだったりと、「女性性」をあえて排除したような人ばかり。その中で、ナツコは、「近づいたときにドキッとする」とか「父親とキスをしている」というように、女性性としての魅力がクローズアップして描かれているわけです。
「女性として魅力的に感じる」ということは、すなわち性欲を換気されるということ。つまり、「ナツコ」とは、「動物的に内側から自然と湧いてくる創作欲求」を指しているのでないでしょうか。
さらに言うと、「産みの母」との関わりや記憶は痛みという代償を伴うのに対して、ナツコの場合「父が連れてきて、そのまま一緒に住むことになった」というような、『流れに任せていたらそうなった。自分がそれを狙ったり、それを得るためにものすごく苦労したわけではないのに手に入れた』みたいなところがあります。
これに関しても、個人的に興味深いなあと思うのは(ジブリにあまり詳しくないので、だいたいの知識で書いており、誤っていたら申し訳ないのですが)…
「もののけ姫」くらいまでは、「目的がはっきりしていて、気が強い感じの女の子」がヒロインに多いのに対して、「もののけ姫」以降くらいからは、「状況に翻弄されているうちに成長した」という感じのヒロインが多い印象を受けること(また、もののけ姫以降は、「他の作者の作品を原作としてアニメ化した」という作品が多いですよね)。二人の母の姿となんとなくリンクするんですよね。
これは、宮崎監督が数々の作品を生む中で、『当初は母親の不在というコンプレックスや喪失感をガソリンにしてきたけれど、作品をいくつもやっているうちに、だんだんそれが消化(あるいは昇華)されてきて、途中から(もののけ姫以降くらいから)はどんどん「単に作ってみたいという本能的な欲求」が創作活動のモチベーションに変わってきた』ということなのかもな、と感じました。
さて。
「創作のモチベーションの質が変わってきたのでは」とさらっと言いましたが、実はこの「創作活動のモチベーションをシフトする」ということは、クリエイターにとっては決して簡単なことではありません。
「母への思い(※呪いとも言い換えられる)で創作をしてきた」という思いがあるのであれば、当然出てくるのは「それが無くなってしまったら、自分はただの人になってしまうのでは」という恐れです。また、母親の姿を再現することにも成功していないのに、モチベーションをシフトしてしまうことは「自分が命がけで愛してきた母を棄てること」であるようにも思えるのかもしれません。
つまり、“ヒミからナツコに『母親(作品を産むモチベーションをという意味でも)』が変わる”ということは、クリエイターとしても、またひとりの自我にとっても非常に命がけの出来事(作中では主人公も、ヒミも、ナツコも、全員命の危機にさらされている)であると言えるのです。
この映画の中でも、それを象徴しているように感じる場面がいくつかあります。
まずは、主人公がナツコ救出の折に、他の人物に「その人(ナツコ)が好きなんだね」と言われて、「いや、父さんの好きな人だ」と言い返す場面が2回も出てきます。これは「本当は自分も気になっているのに、素直に好きと言えない」「相手に拒絶されてしまっても、なるべくダメージが少ないように予防線を張っている」とも言えるのではないでしょうか。
この場面は、(「自分がシンプルに作りたいという思いだけで作ってみたいという欲」そして「でも、コンプレックスや欠乏感がない状態で作った作品が、つまらなかったり評価されなかったりしたら、自分はどうなるのだろうという恐怖(実際に、禁忌の産屋では『お前なんか嫌いだ』とナツコに“言わせて”います)」を、表しているようにも思えます。
そもそも、作品序盤から「不遇な男の子」であるかのような雰囲気でストーリが描かれていますが、起きていることだけ見ると、母の死を除けば、実際にはけして悪いことは起きていないんですよね(新しい母は魅力的だし自分に対して友好的、必要以上に誰かに何かを強制されたりはしない、大きなお屋敷に自分の部屋がある、自分が起こした事件で家族がみんなしっかりと翻弄されてくれる、など)。
その巧妙な描写の仕方自体が「新しいお母さん好き!(自然な欲求に基づいて創作するのが楽しい)」と手放しで言えないシャイさというか、「いや、僕はこういう事情があって、あまり心を人に明かさなくなっているんですよ」と言い訳しているような、照れ隠しのような感じもします。
「産みの母」であるヒミの存在は、自分にとってはルーツであり、決してなかったことにはならない。だけれど、追いかけても追いかけても近づくこともできないし、それを解消する明確なカタルシスも得られてこなかった。そんな中で、やすやすと「新しい母(根拠なき創作欲求)」に従うような自分でいて、果たしていいのだろうか。
そんな葛藤がそのまま作品で描かれているのかな、とそんな風に思いました。
それでも、いばらの道を行く
では、そんな壮絶な葛藤の末に、どういう結論が出たのかということですが、これは割とわかりやすく示されているように思います。
主な場面でいえば、
「ヒミの助けを借りて、ナツコを助ける」
「助け出されたナツコが、主人公の脅威となっていたインコを『可愛い』と笑う」
「ラストでは、父・ナツコ・新しく生まれた弟と、ひとつの家族になっている」
あたりのところです。
まず、「ヒミの助けを借りて、ナツコを助ける」ということにおいては、「コンプレックスだけでは創作活動はできない。迷いはあっても、今まで通りにやり続けるという選択肢はない」ということを意味しているように感じました。
その過程では、自分は(クリエイターとして)もしかして死ぬかもしれないし、否定されるかもしれないけれど、そこを向き合う勇気を持たねばならない。そんな思いで戦い、多くのキャラクターと協力し、実際に新しい自分の形を手に入れたということを体現していると感じましたし…
「助け出されたナツコが、主人公の脅威となっていたインコを『可愛い』と笑う」という部分は、『自分の欲求にしっかりとコミットして先に進むことを選べば、自分が恐れていたものは些末なものであった』いうことを表現している部分があるのかなと。
そして、「ラストでは、父、ナツコ、新しく生まれた弟と、家族になっている」。
これに関してはもはや説明は不要かと思いますが、『「母の喪失」を内包ている自分のままで、「自然に湧いてくる欲求」や「新たな可能性」とも調和することができた」』ということを示しているように感じました。
そして、もう一つ興味深いのが…
よく考えると、不思議なことに同じ画面に二人の母が揃って出てくることはないんですよね(…という記憶ですが、もし出てたらすいません)。
これも、自分の中では葛藤したけれど、結局のところ「ヒミ」も「ナツコ」も裏表の同じ存在(ヒミとナツコは姉妹ですが、姉妹とは両親が同じ存在でもあるわけで)。どちらの動機であろうと、結局自分という土壌から生まれるという意味では同じもの…みたいなことを暗に示していているのでは、と思いました。
「次世代のクリエイター」への期待と恐れ
もう一つ気になったのが、宮崎監督は「次世代のクリエイター」に関してもあれこれ思うところがあるのでは、ということです。
私が、どのポイントからなぜそう思ったのかは、ちょっと記憶が定かではないのですが(この辺が説明できず申し訳ないです)、
この点において気になったのが「わらわらが人間になろうと空を登っていく、そこをペリカンが襲う。ヒミがそれを防ごうと、ペリカンに炎の矢を飛ばすが、わらわらもたくさんそれで死んでしまう」というシーン。
私は、この「わらわら」とは、クリエイターの卵だったり、これから世に生まれる作品のことをも示しているのかなあと感じたんですよね。対して、ペリカンは「社会の中での人の悪意だったり、エゴだったり、システムから生まれる歪み」だったりするのかなと思いました。
というのは、『作為をしなくても、自然な状態であれば、色々な人が、色々な作品やアイディアを世に出していくはず。だけど、「ペリカン」…つまり、誰かからの誹謗中傷や物差しだったり、固定概念であったり、人間が純粋に創作活動ができないような邪魔が入ってしまうと、壊れやすいそれらは簡単に殺されてしまう』…みたいなことを示しているように思えたんですね。
そして、ここでいう「ヒミ」の炎とは、宮崎監督の「自分という存在の影響力の強さ」だったり「創作へのこだわり」を指します。アニメの世界において、宮崎監督の作品に影響を受けていない人はほとんどいないでしょうし、「創作とはこうあるべきだ」「これはOKだけれど、こういうのはいけない」という宮崎監督の意見は、ペリカンを追い払うことはできるかもしれないけれど、同時にそれが強烈な呪いともなって、クリエイターたちの自由な発想を殺したり、縛ってしまう、という比喩に思えたんですね。
つまるところは「新しいクリエイターに出てきて欲しい。無垢で自由な表現はもっともっと世に出ていくべきだ」「だけれど、自分が良かれと思ってしたことが、彼らを焼き殺したり、制限したりすることもある。そんな中で、自分は後世の創作界に何を残していけるのか」という思いが表れているのではないかなあ、と感じました。
ここからはさらに想像ですが、「自分が強烈な呪いになってしまう」ということを恐れてもいるのは、自分自身が誰より「母の不在」という強烈な呪いに縛られてきたからでもあるのではと思います。
この解釈に則ると、新しい母・ナツコが身ごもっている「子ども」とは、ある意味「新しいクリエイター」のことをも、指しているのではないでしょうか。
お腹の子供は「父は同じで、母は違う、腹違いの兄弟」。父を「社会性」、母を「愛情」と比喩するのならば、『社会的に自分と意義(もっと言えば「この世は生きていくのに値する」という宮崎監督の創作のモットー)を共有できる、だけど、創作にかける思いやエネルギーは自分と違う』という、新しい存在を示唆しているわけです。
禁忌の産屋では、妊娠しているナツコのベッドの周りをたくさんの「紙」が囲んでいました。このシーン、特に根拠はないですが、私には「この紙は、今まで作ってきた作品の原稿で、それらのすべてを使って(それが呪いになるかもしれないけれど)、何とか新しいものを召喚しようとしている」ように見えて、とても興味深く感じました。
また、手放しに「新しい子供が出てきて欲しい」という思いばかりではないことは、「新しい子供が生まれてしまうと、家の中で自分の立場はどうなるんだろう」みたいな微妙な緊張感によって表現されているような気もします。これは「新しいクリエイターに自分は嫉妬してしまったり、追いやられてしまうかもしれない」みたいな恐れを示しているのではと思います。
持てるものすべてを、鍋に入れてぶち込んだ、その結果
さて、そんな「後世のクリエイター」へのさまざまな思いが、最終的にどうなるかというと…
ラストシーンで「弟が生まれ、家族になった」という描写の後に、流れる「地球儀」という曲。
これが答えになっているのでは、と私は思いました。
つまり虚構の世界を飛び出し、現実世界において「米津玄師」というクリエイターを召喚する、ということに成功しているんですよね。
主題歌「地球儀」を巡っての宮崎監督と米津さんの話は非常に面白いので、ご存じのない人はぜひググって読んでみていただきたいのですが、
自分が求めていた「自分の遺志を継ぐけれど、自分とは違う感情(ついでに言えば、アニメではない領域という「表現手段」も異なります)で創作するクリエイター」とはまさに彼のこと。
『宮崎監督に強く影響を受けた(言ってみれば、彼の血を引いている)』と公言している若く才のある米津さんが、宮崎監督の意図を汲みながら、この作品のために書いた「地球儀」という曲が、世に生まれる。それは、ある意味で、米津さんの能力を引き出し、教育するということでもあるわけです。そして『その曲が作品本体と調和し、作品自体がさらに良いものに昇華されていっている』という現実そのもの自体が、もうこの「君たちはどう生きるか」という虚構の中に取り込まれているのです。
これは、言ってみれば、
今までの自分を超えることをしたいと心から願い、今までしてきたこと全てを捧げて、葛藤も労力も血も汗も涙も徒労感も矛盾もすべて鍋にぶち込み、何かを『喚びこむ』ために少しでも邪魔になりそうなものはすべて棄て、なりふり構わずに一心不乱に煮込んだ結果、みたいな感じに思えるのです。
純度の高いいいものを作りたい、その思いが高じた時に、その一つの手段として「自分ではない誰かに、自分では産めない何かを産んでもらう」という、新しい可能性に賭けることを彼は選択した。
そして、その賭けにきっちりと勝っている。
…そんな感じがして、私は震えました。
(とはいえ、100%他のクリエイターにこれからを委ねているかと言えばそうでもなくて、それと同時に「自分も負けてなるものか」「まだ自分ももっとできる」みたいな天邪鬼的なエネルギーも依然として感じるんですよね。その「面倒くささ」もある意味、彼の魅力的な部分でもあるのだと思います)
さて、ここに書いた考察は、私の個人的な思い込みみたいなものではあるんですけれど、もし少しでも当てはまる要素があるのだとすれば、この映画は、「人からは全く見えないけれど、内的世界で起きている壮絶極まりない闘争の記録」に他なりません。となると、この作品がしっかりと物語としての形をとって公開されたということ自体が、もはや奇跡なのかもしれません。
途方もない才能がある人(または人たち)が、永い永い時間と、一般の人には想像もできない精神世界の旅と、はてもない労力の集積の果てに、たどり着いたクレイジーな軌跡を、ただお金を払って座っているだけで鑑賞することができる。これってすごいことというか、もはや恐ろしいことです。
すべての創作物がそうですが、自分に理解できる部分はごく限られているけれど、いや、だからこそ畏敬の念を持ちながら触れていけたらいいなあ、とそんな風にも思います。
さて、まだまだ話したいことは尽きませんが、今回はこの辺で。