岸田総理とグレートリセット
首相官邸および外務省のホームページには、2022年1月18日に行われた世界経済フォーラム、いわゆるダボス会議において、岸田総理が行った特別講演の内容が公開されています。
そのスピーチの原稿には次のようなくだりがあります。
岸田首相が強く推し進めようとしている『the Great Reset』、いわゆるグレートリセットと呼ばれるものは、いったいどのような世界の実現を表した言葉でしょうか?
今回は、良くも悪くも日本政府が目指している社会の在り方について、2020年10月に出版された書籍『グレート・リセット』の中から特にそれを示す部分を取り上げて共有したいと思います。
冒頭の写真で岸田総理と並んでテレビモニターに映し出された一人の男が、ダボス会議の会長であり本の共同著者でもあるのクラウス・シュワブです。
戻らないコロナ前の日常
グレートリセットを理解するための基本的認識が、この一文に集約されています。
”パンデミック以前に戻ることはもはやあり得ない”
この強い口調で発せられたウンザリする結論を伴った宣言は、ダボス会議の意志であると同時に、現在ウクライナ支援を表明する西側世界のリーダーが共有する社会変革へのアジェンダであり、先のスピーチにある通り、岸田総理が日本国内において同様に推し進めようとしている価値観でもあります。
つまり現在日本政府が実施している様々な政策は、この宣言に従えば、コロナ前の世界に戻らない社会を前提とした対応、つまりはコロナを通じた社会変革を実現するための方法となります。
その基本姿勢を念頭に置くと、例えば英国を中心に世界の主要各国で既に着用が不要となったマスク生活について、日本政府が頑なに解除しようとしない理由も容易に理解ができるというものです。
つまり国民のマスク着用は、感染症対策という以上に、”パンデミックが意識の変化を加速し一つの転換点となる”ための施策の一つということになります。ですから感染症に対する知見に基づき、マスク着用の要不要を論じることは、現在の日本においては実際には虚しい論点ということになります。
ではそのようにして日本政府が推し進める、パンデミック後の世界とはどのようなものなのなのでしょうか?
急進的な変革と学生運動
ダボス会議がミレニアル世代(1980~90年代生まれ)およびZ世代(1990後半~2010年代辺りのデジタルネイティブ世代)にある意味期待していることは、正に世界をコロナ前の状態から急進的な社会へと誘う価値観の変革をもたらすことです。
このような動きは、コロナ前では気候変動を通じて広がったグレタ女史の一連の活動や、古くは日本における1960年代後半に東大安田講堂を占拠した全共闘などが想起されるかもしれません。
コロナを通じて若者が感じた政府や大人達の理不尽さへの許せない怒りが、これまでの社会を変革する原動力になることを指摘したこの文章は、逆の見方をすれば輝くべき青春時代を若者から奪うことにより、既存社会の在り方や価値観を破壊し変革する力を若い世代に期待することを示唆する文章のように読める可能性が高い。
このように、若者の扇動により既存社会の価値観や文化を破壊し、全く異なる革新的な世界の構築を目指すこの文章を目にした時、私自身が思い浮かべたのは、文化大革命時の紅衛兵の毅然とした姿です。
この説明文のいくつかの単語を、「グレートリセット」や「コロナパンデミック」といったダボスアジェンダの構成単語に置き換えれば、意味の通る文章が完成します。
”グレートリセットは、グローバリゼーション拡大時期に世界経済フォーラム(通称ダボス会議)によって提唱された全国的な学生運動。学生が主体であるが、広義には工場労働者を含めた大衆運動と同じ意味で使われることもある。グレートリセットの動きは、2020年代の世界の「コロナパンデミック」の最中とその後に最高潮に達した。”
グレートリセットとは、各国政府の枠を超えた、ある種の共産革命に近い全体主義社会を目指す活動と見做すことが正しい理解であれば、著者が意識するか否かに関わらず、それはかつての共産革命的な発想や活動と親和性が高い目標ということになります。
その場合に思い出すのは、直近であればアメリカ国内におけるBLMのような破壊的な社会変革運動ですが、それとは対照的に現在の日本の若者は、著者の意図とは裏腹に、コロナ禍で経験した社会の不寛容さを打破するために、社会変革への声を上げて世の中を席巻しようとする代わりに、一人静かに命を閉じることを選択することで、社会への虚しさや抵抗を示しているように感じます。
あるいは日本政府は、若い世代が急進的な代替案を要請するためには、与えるべき傷や失望がまだまだ不足していると考えているのでしょうか。
グローバリゼーション・トリレンマ
民主主義
国民国家
グローバリゼーション
この三つの中から二つを選択するならば、個人的には”民主主義”と”国民国家”を選択することに一瞬の迷いもありません。すなわち日本においては日本国民を中心に、日本語を母語とし、脈々と続く日本文化を受け継ぎながら暮らす社会が相応しい。
グレートリセットとは、このトリレンマの選択から見れば、グローバリゼーションを推し進めるために、”国民国家”を犠牲にするというものに他なりません。それはトリレンマを説明した先の文章の直前に置かれた、以下の内容を見れば明らかです。
グレートリセットを推奨する立場では、グローバリゼーションこそが世界が目指すべき社会の方向性であり、国民国家を通じたナショナリズムの台頭は排除すべき最大の脅威となります。
民主主義のリーダーたるアメリカにおいて、トランプがエスタブリッシュメントから徹底的に叩かれること、逆に愛国的な一般市民から圧倒的な支持を得る理由は、このグローバリゼーションを軸にしたトリレンマの選択に照らし合わせれば明らかとなります。
日本政府は国境を捨て、日本語を捨て、民族を捨てた社会の実現を本当に求めているのでしょうか?
西側全体主義社会への道
国民が各国の多様性を認め合いながら、それぞれの自由を謳歌するための体制であった西側諸国は、残念ながら、ダボス会議を通じたグローバリゼーションという旗の元に、国民主権を廃除したある種の全体主義を目指す方向に進んでいます。
この状況を世間では、1984体制やNWO(ニュー・ワールド・オーダー)、あるいはディストピアといった単語により、ネガティブに表現しています。
今、我々は、Great Reset の先の世界を描いて行かなければなりません。
今、我々は、岸田首相がダボス会議の場で宣言した言葉の意味について、改めて考える必要がありそうです。
国民主権が明確に謳われている日本において、その主権者の代弁者の首長たる内閣総理大臣が、国民の同意を得ずに国民主権を廃して全体主義への転換を宣言するのは、明らかな憲法違反を伴う越権行為です。
そして憲法を反故にした上で、その違憲性を合憲的な政治判断としてグレートリセットを実現するためには、憲法改正により憲法の根幹をなす国民の主権を制限し、その主権を内閣に移管する必要が生じます。
その場合、それに対する国民の懸念は、コロナパンデミックおよびウクライナ危機を通じてにわかに実現への機運が高まった「憲法改正」に向かいます。
既にネット上で多くの警告が発せられている通り、現在の憲法改正の焦点は9条の在り方よりもむしろ『緊急事態条項』の扱いにあることは間違いありません。
ネット上の警告は、現在の自民党案による緊急事態受講の元では、緊急事態の発令によりワクチンの強制接種が実現されるとか、徴兵が可能になるなど、個々の政策への漠然とした不安を警戒する内容となっています。
しかしこの緊急事態条項の導入を、岸田総理のダボス宣言に照らし合わせて考えれば、最も警戒すべきは国民主権を剥奪し、その主権を内閣総理大臣に移管することを通じ、合憲的にグレートリセット推し進めるための合憲的な手段を得ることにあると考えると、その目的と危険性が明確に理解できるというものです。
岸田総理のダボス・アジェンダ宣言がなされた今、実際に国民主権の危機に瀕しているのでしょうか。私自身はそれと共に、日本国における母語であり唯一の公用語である日本語という当たり前の認識に対する危機感を、かつてないほど抱いています。
その点は、どのような状況にあっても守り抜かなければなりません。
今回は、『グレート・リセット』の文書の中から、岸田総理のダボス会議におけるスピーチがもたらす社会の変革についての概要を確認しました。
この300項近い日本語訳の中で、付箋をつけたのは全部で15か所、今回はその内の最初の3か所に基づいた考察となります。
日本は本当に、ダボス・アジェンダが目指す全体主義への社会へと向かっていくのでしょうか?その他の12か所に描かれた世界とはどのようなものでしょうか?
そして日本が日本として真の主権を持って世界の中で立ち上がるためにはどのようにすればよいのでしょうか?
これらはまた、別の機会に考えたいと思います。
ではまた次回。