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【古今名婦伝】中万字の玉菊
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中万字の玉菊
享保の頃、新吉原 中万字屋 の 遊女 玉菊は、さばかりの美女にもあらねど、其素性よきうまれにして、諸人に愛せらるゝ事、廓中に比ぶものなし。其頃、拳相撲といふこともつぱら流行せしが、玉菊その上手のきこえありて、黒天鵞絨にて拳まはしを作り、金糸をもて紋を縫はせ、拳相撲に用ひしとかや。
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元禄十五年(1702年)- 享保十一年(1726年)
享保十一年三月廿九日死す。年廿五才、浅草 光感寺に葬る。此年の新盆より 玉菊追善の 軒燈篭を始む。又、竹婦人(俳人乾什)が追善の浄瑠璃は、三回忌の手向なり。玉菊も河東の三弦をよくひきしゆゑ、十寸見蘭州催ふして、水調子を綴ものにはなしぬ。
たれやらの句に
燈籠に なき玉きくの くる夜かな
※ 「竹婦人」は、江戸中期の河東節の作詞者、俳諧師。「傾城水調子」の作詞者。
※ 「俳人乾什」は、岩本乾什。江戸時代中期の俳人。
※ 「追善」は、故人の冥福を祈ること。
※ 「河東」は、代表的な江戸浄瑠璃のひとつ。江戸時代中期に江戸太夫河東が 十寸見河東を名乗って創始したもの。
※ 「十寸見蘭州」は、河東節の名跡。
※ 「水調子」は、三味線の調子で弦をゆるく張って調子を低くすること。ここでは、玉菊の三回忌に追善のために作られた河東節「傾城水調子」という曲のこと。
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玉菊は、江戸時代中期を生きた女性で、新吉原の 角町 中万字屋 の太夫でした。茶の湯、生け花、俳諧などの諸芸に通じ、なかでも 河東節と拳相撲を得意としたそうです。
気立てがよく、贔屓客はもちろんのこと、新吉原の人々からも好かれた評判の太夫でしたが、享保十一年(1726年)三月、二十代半ばで若くして亡くなりました。
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大きな酒器をのせた盆を手にする玉菊
とてもお酒が好きでそのことが早世の一因とされています。上の絵では、大きな酒器をのせた盆を手にする玉菊が描かれています。
『古今名婦伝』の玉菊も、足もとに洒落た酒器を置いています。
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玉菊が亡くなった年の新盆に、仲の町の俵屋虎文、揚屋町の松屋八兵衛たちが、玉菊の精霊を弔おうと灯籠を掲げました。ここから、吉原の年中行事のひとつ「玉菊 燈籠」が始まりました。
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新吉原の玉菊灯籠
角町 中万字屋で 河東節「水調子」を奏でると、玉菊の霊が現れたと伝わるそうです。
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燈籠に なき玉きくの くる夜かな
※ 参考:国立国会図書館デジタルコレクション『大日本古今名婦鏡』『はちす花 下』『美人艶婦伝』『東京名勝図会 下巻』『掌中東京名所図絵』『日本花柳史』Wikipedia「玉菊」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖