【古今名婦伝】新町の夕霧
※ 「浪花新町扇屋」は、大坂新町の扇屋四郎兵衛。
※ 「寺町」は、下寺町。
※ 「九軒」は、九軒町、九軒町、九軒坊。
※ 「吉田屋」は、揚屋の吉田屋喜左衛門。
※ 「鬼貫」は、江戸時代前期の俳人。摂津国伊丹の人。
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夕霧は、江戸時代前期を生きた 大坂新町の太夫です。
扇屋四郎兵衛の抱えで、もとは京の島原遊郭に居ました。寛文十二年(1672年)に扇屋が京から大坂新町に移転するのに伴い、夕霧も新町へと移りました。
京島原での評判は大坂まで聞こえていたため、今日は来るか明日は来るかとその姿をひとめ見ようと淀川筋に人々が集まったそうです。
その美しさは言うまでもなく、行儀作法が正しく、文雅を好み、俳諧をよくしたたため、夕霧は大坂でも大変な人気となります。一度に複数の揚屋をかけもちすることもあり、自ら 鹿子位遊女を揚げて座を持たせたそうです。
その頃の様子を明治時代の遊女伝『はちす花』から引用してみます。
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夕霧の位は、遊女最高位の太夫。揚屋に呼ばれると、置屋から揚屋へと 禿を従えて大長持を伴って移動しました。
宝暦七年(1757年)に出版された『澪標』から、夕霧が歩いた新町を見てみましょう。
夕霧の文が残る揚屋の「吉田屋」は九軒町にありました。地図の左上に「九軒町」の文字が見えます。
揚屋は、太夫・天神・格子などの位の高い遊女を呼んで遊興する家で、家構えから調度品にいたるまで優雅な趣向を凝らした贅沢な作りでした。揚屋の主人はもとより、遊ぶ客も歌や俳句に通じた粋人が多かったそうです。
吉田屋の室内を見てみます。建物はすべて二階建て、二階にも座敷があり、大変立派な構えであったことが分かります。
「せついん」とあるのは、雪隠で お手洗いのことです。
「玄くはん」は玄関、「ともべや」は供部屋(供の物が控える部屋)、「なんど」は納戸、「中ど口」は名戸口(店先から中庭にはいる戸口)、「ゆどの」は湯殿(お風呂)です。
吉田屋のほかにも揚屋の見取り図があるので、興味があったら見てみてくださいね。
・九軒町 井筒屋 住吉屋 堺屋
・新堀町 大和屋 住吉屋
・越後町 住吉屋 津国屋 茨木屋 茨木屋 高嶋屋 播磨屋
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延宝五年(1678年)の秋頃から病に伏した夕霧は、翌年の正月六日に亡くなりました。京から大坂に移って五年後のことです。
翌日、浄国寺(大阪市天王寺区下寺町)に葬られた夕霧は、その法名を花岳芳春信女とつけられています。
この塚は柳なくても哀なり
鬼貫
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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『はちす花 上』『東洋百花美人伝』『新町遊廓沿革(扇屋夕霧)(夕霧文)(吉田屋)(茶屋揚屋)(太夫の道中)』『名女伝』『旅懺悔』『燕石十種 第1』『蜀山人全集 巻1』『浪華名家墓所記:草稿』『大阪案内:公正諸番附』『大日本人名辞書 下卷 新版』『近畿墓跡考 大阪の部』『閨中物語:国史を彩る濃艶なる百美人』『世話狂言傑作集 第8巻』『天王寺区勢概要 昭和15年版』
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖