
【古今名婦伝】巴御前

巴御前
巴は 木曽義仲の妾にして、粟津の戦破れて石田為久がために義中をうたれ、我はまた和田義盛に生捕るに、義盛、巴が 力量 を感じて右幕下に許を乞て妻となして一子をまうく。是、朝日奈三郎義秀なり。
義秀、和田合戦の時、ニ十五歳にて討死す。没後、一族追福のため、雉髪して菩提を吊はんと念佛三昧にして 生涯 をおくるに、九十余歳の 長寿 を保てり。
さかしまに世のうき事を 三つともゑ
めくる月日を かぞへつくして
※ 「木曽義仲」は、平安時代末期の信濃源氏の武将 源義仲。
※ 「粟津の戦」は、寿永三年一月二十日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との戦い。源平合戦(治承・寿永の乱)のひとつ。
※ 「石田為久」は、木曽義仲を討ったとされる武将。
※ 「朝日奈三郎義秀」は、和田義盛の三男。
◇

生没年不詳(平安時代末期)
巴御前は、平安時代末期、源平合戦の戦乱を生きた女性です。
主君である木曽義仲(源義仲)に従って平家討伐に加わり、多くの武功をあげました。巴の美しく勇敢な姿を『平家物語』は次のように伝えています。
巴は色白う髪長く、容顔誠に美麗也。究竟の荒馬乗の、悪所落し、弓矢打物取ては、如何なる鬼にも神にも合と云ふ一人當千の兵也。されば軍と云ふ時は、札よき鎧著せ、強弓大太刀持せて、一方の大将に被向けるに、度々の高名肩を竝る者なし。

木曽義仲は、寿永二年(1183年)に倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り入京を果たしますが、京の治安回復の遅れや皇位継承問題への介入などから後白河法皇との関係が悪化し、源頼朝率いる鎌倉軍と対立するようになります。
寿永三年(1184年)宇治川の戦いで 源範頼・義経に敗れた義仲は、京を脱出し北陸へと向かいますが、近江国粟津で、対立していた一条忠頼率いる甲斐源氏軍に遭遇し、合戦となります(粟津の戦い)。もはや壊滅状態の義仲軍に残っていたのはわずか五騎、このなかに巴もいました。
『平家物語』の「木曽最後」からそのときの様子を引用してみましょう。
懸破々々行く程に、主従五騎にぞ成にける。五騎か中迄も、巴は討れざりけり。
木曽殿 巴を召て、己は女なれば、是よりとう/\何地へも落ゆけ。義仲は討死をせんずる也。若人手に懸らずば、自害をせんずれば、義仲が最後の軍に、女を具したりなど言れん事、可口惜と宣へ共、猶落も行ざりけるが、餘に強被言奉て、哀好らう敵かたきの出来よかし。
木曽殿に最後の軍して見せ奉んとて、控て敵をまつ所に、爲に武蔵国の住人、御田八郎師重と云ふ大力の剛の者、三十騎許で出来る。巴其中へ破て入り、先御田八郎に押ならべ、無手と組で引落し、我乗たりける鞍の前輪に推つけて、少も不動、頸ねぢ切て捨てんげり。
其後物具脱棄て、東国の方へぞ落行ける。
主君の義仲に、最後の軍をお見せいたしますと言って、三十騎の敵軍にひとり駆け入って敵将の首をとった巴。そして、武具を脱ぎ捨てると東国へと落ち延びていったといいます。
『平家物語』に書かれている巴の消息はここまでです。
📖
『源平盛衰記』や『源平闘諍録』にも記される巴御前ですが、生没年をはじめ詳しいことは分かっていません。
一説によると、義仲の妾として四人の男の子(義高、義重、義基、義宗)をもうけたとされ、また、粟津の戦いに敗れた後に捕虜となり、和田義盛に望まれて朝日奈義秀を出産したともされています。
『古今名婦伝』に描かれている、膝によりかかる男の子は、和田義盛との間に生まれた朝日奈三郎義秀です。

鎌倉(神奈川県)にある 鎌倉七口のひとつ「朝夷奈切通」は、この朝日奈三郎義秀が一夜のうちに切り開いたとされることから付いた名前です。

◇
勇ましい姿で描かれることの多い巴御前ですが、ひとりの女性として、また母としてみると悲しい境遇であったことがうかがえます。
木曽義仲とのあいだに生まれた嫡男 義高は、義仲が敗死してまもなく十二才という若さで討たれ、和田義盛とのあいだに生まれた朝日奈義秀も、由比ガ浜で義盛が敗死した際にニ十五才の若さで討たれています。ただ、これも諸説があり、義秀だけは死なずに安房に脱出して落ち延びたとされ、全国各地に朝日奈義秀の落ち武者伝説が伝わっています。

さかしまに世のうき事を 三つともゑ
めくる月日を かぞへつくして
参考:国立国会図書館デジタルコレクション『〔筑紫の天満宮〕巴御前(東都高名会席尽)』
Wikipedia「巴御前」「源義仲」「朝比奈義秀」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖