【古今名婦伝】須磨松風
※ 「津國」は、摂津国。
※ 「蜑」は、海人。
※ 「姉」の読み「いね」は、姉の女房詞。
※ 「配処」は、流罪の地のこと。
※ 「田井の畑」は、田井畑村。多井畑とも。
※ 「支考」は、江戸時代中期の俳人、各務支考。
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松風は、平安時代を生きた女性です。妹の名を 村雨といいました。
もとは 讃岐国の塩飽某の娘であったのが、継母に憎まれて須磨にさまよいたどり着き、田井畑の村長のもとに身を寄せました。
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ある日、汐汲みをしていた二人は、京から左遷され須磨に蟄居していた 在原行平に出会います。
行平から「你們らは何国の者にて、何方の里に住みけるぞ」と声をかけられた姉妹は「しら浪のよする 渚にすごす 海人の子なれば 宿もさだめず」と返しました。粋できれいな返し文ですね。
さらに尋ねる行平。二人が返す文は、筆跡も拙からず。心惹かれた行平は、田井畑の長を訪ねて、ふたりを召したいと伝えます。
行平は、姉を 松風、妹を村雨と名づけ、ふたりは行平の側に仕えることとなりました。姉妹と歌を詠み、楽器を奏で、須磨での暮らしの侘しさを紛らわす行平。
行平は 須磨での滞在中に、浜辺の流木に一本の糸を張って琴を製作したといいます(須磨琴)。こちらのWebサイト「兵庫県無形文化財指定 一絃須磨琴」で演奏を聴くことができるので、よかったら聴いてみてください。とても深く豊かな音色です。
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行平と松風・村雨の暮らしを見てみましょう。この絵では、笛を吹く行平の両脇で、松風は琴を、村雨は琵琶を弾いています。絵の右手前で耳をかたむけるのは里人です。
こちらの絵では、島々の名所旧跡をめぐる船上の様子が描かれています。行平の左側に松風・村雨が座り、右側には田井畑の長の妻「あまおとめのはゝ」の姿が見えます。
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三年の時が過ぎ、赦されて京に戻ることになった行平。別れの形見にと、烏帽子と狩衣を松の木に掛けて残し、次の歌を詠みました。
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む
この日がいつか来ると分かっていたものの、別れを悲しむ松風と村雨。
行平の旅立ちを見送った後、ふたりは髪を下ろして尼になり、庵を結びました。行平の無事の祈りながら、亡き母の後世を弔い暮らしたといいます。
この松風・村雨の悲しい別れの話を題材にして生まれたのが謡曲『松風』です。能楽の『松風』をはじめとして、浄瑠璃の『松風村雨束帯鑑』『行平磯馴松』、歌舞伎の『村松風二人汐汲』といった作品が生まれました。
下の能楽図会で、汐汲車を曳くのは松風です。
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ふたりが結んだ庵は「松風村雨堂」として今も残し伝えられています。
しら浪のよする渚に
すごす海人の子なれば宿もさだめず
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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記図会 後編5』『須磨史蹟』『須磨誌 訂補版』『俤けんじ五十四帖 十八 松風』
Wikipedia「松風・村雨」「松風村雨堂」「在原行平」「松風 (能)」
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