禊が終わった今、重心を真ん中に持ってこれる気がした。
納期に終われて駆け抜けた4月が終わり、ゴールデンウィークを迎えた。決めていた通り、のんびりと過ごすことが出来て、清々しい。
のんびりしたわりには、30人以上は誰かと会って会話したような気がする。久しぶりに会う人の子が成長しすぎてて目玉飛び出しそうになったり、再婚して子ども増えてたり、離婚してたり、恋をしていたり、新しい仕事を試していたり。30代や40代、皆それぞれで、人生はひと通りではないことをまざまざと感じる。どの生き方も、傍から見るとみずみずしい。
明朝、飛び地の平日を迎える今日、ふと自分自身の中で潮目が変わったのを感じた。これまでの経験と今を混ぜ合わせた、「私」として、この先を生きるんだろうという予感。
もちろんこれまでだってそうだった。だけど、なぜそう感じるのかというと、ずっと引っ張られ続けていた過去である、「女将」の私を成仏させられた気がするからかなと。多分、当の宿には、生き霊がまだいたんじゃないかと思う。私がそこから離れてからもう4、5年が経過している。最初の1、2年くらいは意識から外すのが出来ないくらい執着してた。苦しかった。そのことから比べると、すっかり顕在意識からは祓われていたが、いつか再訪問しないと「禊」は終わらない気がしていた。心理的ハードルを下げる緩衝材的に、時折再会している村の旧友を巻き込んで、再訪した。食事をし、いっぱいビールを飲んだ。現在も宿で働く、当時の私を知る、それこそ「女将」と「スタッフ」だった人たちと、酔ったエネルギーも借りながら会話をした。一方的に私がしゃべり続けていた気もする。ドラマチックなのは私だけで、他の誰も気にも留めてないような出来事だとは思うけど、これで、私の禊は終わったんだと思う。
重心を後ではなく、前に置きたいとずっと願っていた。2年前に会社員になれたのは大きな出来事で、前に道を作るきっかけになる気がした。だから少しだけ「会社員な自分」に、非日常というかハイなスイッチで臨んでいた気もする。後ろに引っ張られている分、やや前のめりだ。禊が終わった今、重心を真ん中に持ってこれる気がしたんだと思う。
これからは「会社員」という役割を無理しないでもいい。会社で任される仕事にしても、個人的に頼まれたことも、一緒に生活をするバディとの付き合いも、友達とのコミュニケーションも。どれも分け隔てなく、私として、目の前のことにアプローチしていきたい。どうせなら、関わる人といいバイブス交換し合えるかとか、少しでもいい世界に繋がるのかとか。あくまで所属しているのは、自分自身であることを忘れないようにしたい。
とは言え、詰め過ぎたり、誰かにお願いされると、サポーティブ体質が発動し、ついつい何者かの役になって乗りこなそうとしたりしちゃうので、ちゃんと小休止を挟み、いろとりどりの生き方の友人たちに会って、視界をクリアにして、私自身に還ってきたい。