【認知症映画#4 】ペコロスの母に会いに行く
「ボケることも悪かことばっかいじゃなかごたな」
長崎で生まれ育ったサラリーマン・ゆういちは、ちいさな玉ねぎ「ペコロス」のようなハゲ頭を光らせながら、漫画を描いたり、音楽活動をしている。男やめものゆういちは、夫の死を契機に認知症を発症しはじめた母・みつえの面倒を見ていたが、症状が進行した彼女を、断腸の思いで介護施設に預けることになる。過去へと意識がさかのぼることの増えたみつえ。その姿を見守る日々のなかで、ゆういちの胸には、ある思いが去来する-。<映画作家>(C)2013『ペコロスの母に会いに行く』製作委員会
(引用:Amazonプライムビデオ)
「ばーちゃん、おいよ、おい」
主人公ペコロスと、母みつえ。
二人は長崎の街で暮らしている。
映画の前半は、みつえの認知症状が面白おかしく描かれ、オレオレ詐欺さえも吹っ飛ばす笑いに満ちている。
来客のために用意したお茶とまんじゅうを、お客さん用だと忘れ頬張る母。
孫と同居していることを忘れ、オレオレ(おいおい)詐欺の電話に同情するも、電話中だということも忘れ、受話器を置いたままにするみつえ。
外で待ってるなと言われても、何度も外の駐車場に腰掛け、息子の帰りを待つ母。
「最近のことは忘れるとに、昔のことばっかい思い出すっちゃんね」
そう友人にボヤくペコロスの表情は悲哀に満ちたものではなく、毛のない頭をぽりぽりかいては困ったもんだ、と特段困っているようにも見えない。
そんなペコロス一家のおとぼけに満ちた状況だが、映画の後半には翳りが出てくる。
みつえ、老人ホームへ
「親ば捨てることは、おいにはしきらん」
みつえの認知症が進行し、ケアマネや子どもから施設を検討するよう言われたペコロスは、やがてみつえの老人ホーム入居を決める。
そんな彼に友人が、親を捨てるのかと声をかける。「おいもどげんしたらよかとか分からん」と弱々しく反論するペコロス。
みつえの入居するホームでは、介護家族には見慣れた光景、大きな声のスタッフや、子どもに戻って過ごす入居者、(これは問題だが)女性スタッフにセクハラをする好色じじいの姿がある。
「ゆういち、もう帰ろう」
そう抵抗する母を振り払うかのように、ホームをあとにするも、車のミラーでいつまでも母の姿を見つめるペコロスの心中は、介護経験者としても推し量ることは出来ない。
変化に身を任せる
母のいなくなった部屋をやるせない表情でみつめる息子ペコロスだが、足繁くホームに通っては母に声をかける。
そんな息子を次第に認識できず、「悪者の来たー!」と泣き叫ぶようになるみつえ。
その度に、ツルツルのハゲ頭を差し出し、「おいたい、ゆういちたい」「ゆういち、あぁ、ゆういち」と頭を撫でられる。
そんなやり取りも次第に意味を成さなくなり、みつえはだんだんと彼方へ意識が旅立っていく。
それでも、息子の泣く姿にふと覚醒し、「だい(誰)かに何か言われたとね」と心配する姿は、私の母も同じだ。
母が母でなくなることを受け入れられずに泣いていると、母はいつも「大丈夫よ大丈夫」と弱々しくも暖かい腕で包んでくれる。
その度に、母がまだ母親の部分が残っている嬉しさと変化を受け入れられない自分が哀しくなり、よけいに泣いてしまう。
一人の人間として
母は母である前に一人の人間だ。
映画の中で、みつえの過去も描かれ、どんな人生を歩んできたのか解きほどかれる。
そこには戦争を経験し、神経症の夫を支えながらゆういちを育てる、挫けそうになりながらも歩む一人の女性の姿があった。
私の母も、認知症患者である前に、一人の人間である。
青年期を経て父と出会い、子供たちを育て、懸命にもがき生きてきた女性だ。
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私はよく母のことを"ちづるさん"と名前で呼ぶ。それは母という役割ではなく、一人の人として認識したいからだ。
介護をしているとつい役割が逆転し、母をひどく叱りつけることもある。
でも、過去の記憶の中で生きようと、私を心配する母に戻ろうと、母は私の母であり、ちづるさんである。
ちづるさんからも、いつか「悪者のきた」と泣かれる日が来るかもしれない。
でもちづるさんはちづるさんだ。
そこを忘れてはいけない、そう思う一作だった。