日本史のよくある質問 その1 「の」がつく人・つかない人
このシリーズでは、日本史を教えてきて比較的多く寄せられた質問を、ちょっと掘り下げながら記事化していきたいと思います。
主に大学受験~大人向けの内容ではありますが、冒頭のまとめ部分だけを使えば、中学生以下向けの説明にも使えるように書いていく予定です。
気まぐれに、思い出した順に書いていきますので、時代が前後することもあると思います。気長にお付き合いください!
その第1回のテーマ…
生徒:質問です!
名字に「の」がつく人とつかない人がいますよね。
覚えづらいんですけど、なんで余計なものがついてるんですか?
私:…いや、余計なものではないんですけどね💦
つまり、
「藤原道長」は「ふじわらの みちなが」(「の」がある)
「武田信玄」は「たけだ しんげん」(「の」がない)
ということですね。
というわけで、
「の」って何なのか
が今回のテーマになります。
結論から書いてしまうと、
「の」がつく…古代から続く血のつながり(血縁関係)
「の」がない…支配している土地や、出身地の地名(地縁関係)
です(一部例外あり)。
上は「氏」、下は「名字」といいます。
例えば、「武田信玄」ですが、
武田家は、血縁で見ると源氏の末裔です。
なので、「源信玄(みなもとの しんげん)」というのも、間違ってはいません。
一方、「武田」という名字は、信玄の祖先にあたる源義光の子、源義清が、常陸国武田荘(今の茨城県ひたちなか市辺り)を支配していた時代に名乗るようになりました。
その後武田家は甲斐国(現在の山梨県)に移り、一時は新支配地の「逸見」を名乗ります。その後、出身地の「武田」という名字に戻り、現在に至ります。
つまり、
「源」一族で、「武田」という場所出身の人の子孫の信玄さん
ということですね。
他の例としては…
文化人として有名な一条兼良(いちじょう かねよし)は、
「藤原」一族で、京の都の「一条」に住んでいる兼良さん
です。
室町幕府三代将軍足利義満は、対外的な文書では「源道義(みなもとの どうぎ)」と名乗っています。
足利家は、下野国(今の栃木県)足利荘(足利市あたり)の支配者でした。
つまり、
「源」一族で、「足利」という場所の支配者の義満さん
ですね。
ちなみに、「源」氏は天皇の血脈につながる由緒ある家柄です。
代表的なのは、清和天皇(850年~881年)を祖とする清和源氏です。
「源」は、皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏のひとつで、「平」なども、臣籍降下の氏にあたります。
下の画像は源義光像。源頼信(河内源氏)の孫にあたります。
武士というより貴族のようないでたちです。
このような元皇族以外には、
古代の「氏姓制度」で認知されていた有力氏族
があります。
例えば蘇我氏、物部氏、そして先ほど紹介した藤原氏(以前は中臣氏)などがそれにあたります。
つまり、「の」がつく家柄は…
たいてい、皇族の末裔か、古代から続く名家
だ、ということですね。
古代~鎌倉時代初期くらいまでは、「氏(血縁関係)」を中心に名乗っていた
のですが、社会情勢の変化で
鎌倉中期以降くらいからは、「名字(地縁関係)」を中心に名乗る
ようになります(細かい話はまた後ほど…)。
過渡期にあたる鎌倉初期~中期は、「の」がつく人とつかない人が入り乱れるので、覚えるのに苦労すると思います。
室町時代になると、「の」がつく人はほとんど出てこなくなりますね。
なので、祖先は同じ(「氏」は同じ)ですが、別の場所に住んでいるので「名字」が違うという現象が起きるのです。
(例)「武田」も「足利」も、血縁関係で見れば「源」氏ですが、支配地や出身地が違うので名字が違う。
ところで、この話をしていると、再び質問をされることがあります。
「氏」と「姓」と「名字」の違いがよくわかりません!
あ、確かに「姓」もありますね。
現代では同じような意味として使われるので、なおさら混乱するのかもしれません。
次回の記事では、これらの違いを日本史の観点から説明していきたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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