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文明と地図を考える その25 「元禄国絵図」(後編)
前回は、1697年に編纂が命じられた「元禄国絵図」を理解する前提として、5代将軍徳川綱吉の治世について触れました。
この時代、河村瑞賢らによって全国的な物流網(主に水運)が発達、経済が大きく発展したことにより元禄文化が花開きます。
そして、殺伐とした戦国遺風は過去の遺物として徐々に廃れていきます。
以前の記事を読まれると、今回の内容がわかりやすいかな?と思います。
慶長・天和の国絵図はその19、その20、その21、その22、
元禄国絵図はその23 その24で触れています。
さて、今回はその続き。
家綱・綱吉の施策により、流通網が発達し産業の活性化、そして当時の先進地域である上方(近畿地方)を起点に花開く元禄文化…。
世の中の価値観が「戦国時代」から「江戸時代」にようやく移り変わっていきます。
では、綱吉の時代が終焉を迎えようとする1697年、あえて国絵図を編纂した理由とは何なのでしょうか。
※この後取り上げる荻原重秀やその施策については、現在でも研究者の間でかなり意見が分かれています。あくまでも「もこ侍説」という観点でお読みいただければ幸いです。
というわけで今回のテーマは
江戸時代の官製日本地図⑦
徳川綱吉の治世と元禄国絵図(後編)
です。
時は元禄時代。
順調に発展する経済の中で、1695年、ある命令が発せられます。
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