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小説 「長い旅路」 21
21.琴線が切れる時
早朝に ふと目が覚めると、隣の布団に悠さんは居なかった。
トイレにでも行っているのなら、良いのだが……。
俺は、彼が昨夜「死にかけたことがある」と言っていたのが、妙に気になっていた。
その影響か、除草剤を飲んだ「あの日」のことを、久方ぶりに夢に見た。
課長が自分に水を飲ませているところを、映画か何かのように、画面越しに観ているような夢だった。
起き出すには早すぎる時間なので動かずにいると、悠さんが引き戸を開けて戻ってきた。
彼は、俺が目を開けていることに気付かないまま、自分の布団に潜り込んだ。
無事で、良かった。
そこから「二度寝」をしないまま、彼のスマホが鳴る時間になった。
彼は不満げにスマホを手に取って鳴り止ませてから、それを再び枕元に放った。
同じことが複数回あって、やっと彼は「起きる」と決めたのか、足元に向けて布団を蹴っ飛ばした。
何やら独り言を言いながら、のたうつように体の向きを変えてから起き上がって、大きな欠伸をしたら、布団の上から俺の背中を叩いた。
「起きてるか、和真……」
俺は、それによって目を覚ましたかのように振る舞った。
何も言わず、寝転がったまま彼を見上げ、昨夜は すごく腫れていた彼の顔がどうなっているか見ていた。
概ね「元通り」だ。
「朝、だぞ」
「お、お、おはよう、ございます……」
舌が うまく回らない。
「おはようッ」
起き上がってから「悠さん、身体は大丈夫ですか?」と訊いてみる。
「んー……正直、まだちょっと、気持ち悪いんだ」
その後も、おそらくは洗面所ですることに関して何かを言っていたが、ほとんど聴き取れなかった。
そうこうしているうちに、いつもの作業着姿の先生がやってきて、悠さんに「2階で食べられそうか?」とか「病院に行くか?」と、幾つか訊いた。
彼は、2階には「上がる」と答えたが、病院に行くのは拒否した。
「鼻を、ちゃんと診てもらえよ」
「どうせ『いつもの鼻血』だよ。また、笑いものになるだけさ……」
笑うほうが、どうかしている。
朝食を食べ終えてすぐ、彼はリビングで座布団を枕に、横になってしまった。目眩がするらしい。横になった状態で、いつも通りテレビの録画を確認している。
先生は散歩に行かず、資料室から持ち出した本をリビングで読んでいた。
やがて藤森さんが出勤してきて、先生が彼女のために鍵を開けに行く。下の階で、悠さんの体調のことについて話しているのだろう。2人は なかなか上がってこない。
俺は、出勤してきた彼女に挨拶をしたら、すぐ3階に上がってしまいたかった。
頭の中が、うるさくなってきたのだ。周りに人が居たら……危ないかもしれない。
(“死に損ないめ!”)
(“役立たず!”)
(“金喰い虫!”)
本当は今すぐにでも、一人で資料室に引っ込んで、「読めば、心が落ち着く」と判っている本を、開きたい。
(“あんな若い子の前で……無様だなぁ!!”)
(“彼女も、おまえのこと『気持ち悪い』と思ってるぞ!”)
(“だから滅多に近寄らないんだ!!”)
「うるさい……!!」
耳を塞いでみても……【音源】は頭の中だ。意味が無い。
(“死ねよ、気持ち悪い……”)
(“つーか、臭すぎるんだよ、おまえ!”)
(“ずーっと、腐った鶏の臭いがするぞ!!?”)
「やめろ……!!」
(“また『別室』に行くんだろ!!?”)
(“黙って椎茸を数えることも、出来ないんだ!!馬鹿だから!!”)
(“汚い、猿め!”)
「違う!!」
堪えきれず、叫ぶ。
目の前の景色が、ぐにゃぐにゃ歪んでいく。どんどん視野が狭くなって、喉の奥から、劇薬で爛れた時と同じ臭いが、ごく僅かだが上がってくる……。
薬臭い汗も、厭わしい。
頭を掻きむしっても、耳を引っ張ってみても、どうにもならない。
相変わらず、数えきれない人間の、下卑た嗤い声が聴こえる。全員が、俺の体臭や病態を嗤い、一秒でも早い【死】を望んでいる。
それでも、黙って背中を撫でてくれる人が居る。
(悠さん……!)
具合が悪いのに、起き上がって、ここまで来てくれたのだ。
すがりついて、泣いてしまいたいくらいだった。しかし、俺の その思考も、“奴ら“には漏れている。
(“男を、襲う気だ!”)
(“逃げろー!悠介ー!”)
「死に晒せよ、クズ共……!!」
自分の目や口から、どす黒く、禍々しい、炎のような何かが、出ている気がした。
彼は背中を撫でるのをやめて、ぐっと力を込めて、肩を抱き寄せてくれた。
「この家に、そいつらは、居ない」
耳元で、はっきり喋ってくれる。
「……ここは、俺の家だ。山ん中の会社じゃない。……もう、パワハラは『終わった』んだ。……おまえは、生きて、抜け出したんだ。『勝ち組』だ!」
(勝ち組なもんか……!)
俺は、一旦は【死】を選んだ『負け犬』だ。
「おまえ……さては『吉岡 諒』の偉大さを、まだまだ解ってないな!?……俺達は、あの天下に名立たる『大先生』と、一緒に住んでるんだぞ!?選ばれし『勝ち組』だ!」
いまいちよく解らない励まし方だとも思ったが、おかげで、頭の中が静かになってきた。
先生と藤森さんが上がってきて、俺の異変に気付き、声をかけてくれた。
「どうした?彼も、具合が悪いのか?」
「あぁ。でも……だいぶ落ち着いたみたいだ」
彼は、先生の問いに応じてから、抱き寄せたままの俺の肩を軽くゆすって、確かめるように「な?」と、訊いてくれた。
俺は、それに促されたように、どうにか藤森さんに「おはようございます」と、言うことが出来た。
彼女は、にこやかに手話で応じてくれた。
俺は、彼女の前では、いつだって「無様」だ。
それでも、彼女が俺を馬鹿にしたことは一度も無い。俺に何か異変があれば、すぐに先生か悠さんを呼んできてくれる。
俺が、どれだけ吃っても、発音がおかしくても、絶対に笑わないし、言いたいことを言い切るまで、急かすことなく待ってくれる。
数日後。先生と悠さんが口論をしているところを、初めて見た。それは、坂元さんが退勤した後、リビングで突然始まった。
先生は、彼の勤務先の【大株主】で、設備や人事に関する発言権がある。
その先生が、社屋に出向いて社長達と話し合い、悠さんが休職している間に、現場に新しい機械を導入することを決めてきたというのだ。彼が、これまで【命懸け】でやってきた仕事の一部を「全自動」で行える、最新型の機械が導入されるらしい。
それにより、彼の復職後の身体的な負担は大幅に軽減される。
だが……彼は、それを喜ばなかった。むしろ、怒りを露わにした。「機械に仕事を奪われること」や「長年に渡る自己研鑽と『投資』が無に帰すこと」「長く愛用してきた旧型の機械が処分されること」に対し、少なからず抵抗感を覚え、憤りすら感じているようだった。
「『おまえなんか、もう要らない!』『このまま辞めちまえ!』って、言われてるような気分だぞ、俺は……!!」
「違う!」
「俺が、何のために!いくらかけて!あれだけの義手を買って、練習して……形を改良してきたと、思ってるんだよ!!?」
俺が見ている前でも、悠さんは構わずに食卓をぶっ叩き、先生を怒鳴りつける。先生は、男性かと思うような力強い声で、窘めるように応じる。
「全てが『不要』になるわけじゃない!」
まるで、武道場で弟子を叱る師範だ。
悠さんのほうは、今まで見たことがないほど、恐い顔をしている。まるで『狼男』だ。
「諒ちゃんだって……『小説なんかAIに書かせればいいから、おまえは要らない!』って言われたら……『ふざけんな!!』つって、キレるだろ!!?」
「それは、今回の件とは関係無い!!」
「馬鹿か!!俺にとっての【手仕事】は!……諒ちゃんにとっての、小説だ!散歩だ!……動物園だ!!毎日米を食って、仏様を拝むことだ!……【生き方】そのものなんだよ!!それを奪われちゃあ……死ぬのと変わんねーわ!!!」
「3Dプリンターだって、人が操作するんだ!おまえの『仕事』は失くならない!」
「ただ『スイッチを押すだけ』の役なんて【手仕事】とは言わねーよ!!……俺の話、聴いてたか!!?」
手近に食器やリモコンがあれば、彼は投げていたかもしれない。
「おまえが、あんな血だらけで帰ってきたら……私としても『どうにかしてやりたい』と、思うさ!!」
「大きなお世話だ!!……勝手に決めやがって!!」
「まずは、身体を治せ……」
「うるっせぇな!!分からず屋め!!」
怒りに燃える【職人】は……『天下に名立たる大先生』を、罵倒してしまわれた。
先生は、それ以上 反論はしなかった。
その、激しい口論から数日後。彼は唐突に荷物をまとめて、出ていってしまった。行き先は、先生の弟さんの家だという。
いくら「親族の元へ行く」とはいえ、耳の状態は、まだ万全ではないはずだ。
俺は、病院にも行かずに遠方へ旅立った彼が心配でならなかったが、先生は悠然としていた。いつも通り、心のままに、散歩と読書と執筆を、楽しんでいるかのようだった。
それが、文体と精神状態を安定させる秘訣なのだろう。
朝の散歩から帰ってきて、普段なら3階のベランダで吸う煙草を2階で吸って室内に戻ってきた先生に、俺は尋ねた。
「先生……悠さんは、いつ戻ってきますか?」
「分からない。……本人でさえ、決めていないようだから」
「連絡は、ありましたか?」
「弟からは来るよ」
悠さん自身は、まだ先生を許せないのかもしれない。
「気になるんなら……君から連絡してやったほうが、あいつは喜ぶよ」
「は、はい……」
とはいえ、何と送ればいい?
「岩手は涼しいですか?」くらいなら、怒りはしないか……。
今の彼に、先生の話と、仕事の話は「NG」だ。絶対に。
気候に関する質問に始まり、サイの動画や爬虫類の写真を適当にLINEで送っていたら、文章は ほとんど返ってこなかったが、彼からは広大な水田の風景や、観光用に整備された鍾乳洞の中の写真、綺麗な川の動画等が送られてくるようになった。
俺も、どこか「いつもと違う景色」が撮れる場所に行ってみたくなった。
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【22.虹色の旗】
https://note.com/mokkei4486/n/n4d8bef0a8da0