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小説 「僕と先生の話」 17

17.もうひとつのアトリエ

 僕は予定通りの勤務を順調に続けていた。
 先生は、アトリエに居ても古新聞を読んでばかりいるし、クロッキー帳にだけは何かとアイデアを書き溜めているようだけれど、絵本の原稿に関しては なかなか筆が進んでいないように見受けられた。(アトリエの、ドアが閉まっていることのほうが珍しくなっていた。)

 クロッキー帳のページを1枚ちぎって、何色もの色鉛筆で線を重ねて、ひたすら一つの∞(無限を意味する記号)を描き続けながら、ぶつぶつと支離滅裂な文節を口に出し続けていることもあった。いつもの机ではなく、床に敷いた古新聞の上で、胡座をかいて。眼鏡を外して。
 部屋が揺れているかのように体はずっと ふらふら動いていて、何故か めまぐるしく声色を変えながら、恐竜の名前や古典の一節、地質学の用語らしきものを、特に脈絡もなく断片的に発している。「博士」とか「食べる」という単語も、よく出てくる。時折、一人でクスクス笑っている。
 少し、心配になってきた。

 しかし、冷静に考えてみると、小中学生の頃の僕と、大して変わらないのだ。宿題や勉強に嫌気がさした時、アニメや漫画の台詞とか、気に入ったキャッチコピーとか、覚えたての四字熟語を、意味もなく大きな声で発しながら、稚拙な落書きばかりしていた気がする。体の大きさこそ違うけれど、家族から見れば、こんな感じだったはずだ。
 先生は、疲れた頭を空っぽにするために遊んでいるか、次回作のアイデアを煮詰めながら、新しい画法を模索しているのかもしれない。
 描かれる∞は、それだけでも「アート作品」と呼べそうだった。先生にしては珍しく、暖かみのある明るい色だけを使っていた。(普段あまり使わないから、なかなか減らない色……と、言うこともできそうだ。)

 僕が その行動を止める理由は何もないから、声は かけなかった。


 僕がリビングで退屈凌ぎにテレビを観ていると、先生が下りてきた。「うるさい」とでも言われそうな気がして、僕は反射的にテレビを消した。

「坂元くん」
普段どおりの、落ち着いた低めの声に戻っている。怒っているわけでもなさそうだ。
「どうされましたか?」
「私には、行き詰まった時に訪ねると決めている場所が、いくつか在るんだ……」
「そうなんですか?」
先生が座らないので、僕が立ち上がる。
「明日にでも、そこに行きたいと思うのだけれども……どうも体調が良くないから、付き添いをお願いしたいんだ……」
「僕で、よろしければ」
「申し訳ない。明日の……夕食後に行きたいのだけれども……」
「わかりました」

 翌日の夕食後。僕は、普段より1時間早くタイムカードを切ってから、先生の外出に同行した。今日も、車は使わない。駅で電車を降りてから、ひたすら歩く。
 行き先は、先生が20代の頃に働いていた町工場なのだという。
 僕は、先生が叫んでいた『事件』のことが脳裏をよぎったけれど、あえて何も言わなかった。ただ、先生が製造業の経験者であることを初めて知ったので、その点にだけ触れた。
 しかし、先生は「一年くらい、そこでリハビリのためにアルバイトをしていたんだ」としか、言わなかった。
 僕は「リハビリ」という単語から、働いていたのは『事件』の前ではなく後だと判断した。
「……どうして、そんな所に、今も行かれるんですか?」
「うーむ。……自分にとって大切な神社やお寺に、何度も足を運ぶようなものかな」
そこへ行くことが生活の一部になっているか、その場所に尋常ではない思い入れがあるということだろう。
「絵のことで困ったら、動物園や自然の中へ実物を観察しに行くのだけれども……物語そのもののことで悩んだら、そこへ行くことにしているんだ」
「行けば、アイデアが浮かぶんですか?」
「行って、帰って、一晩寝たら……かな?
 不思議な夢を見るんだ。
 そして、起きたら、身体がすっきりしていて、不思議と食欲が湧いてくるし、物語のアイデアが次々と浮かんで、止まらなくなって……それを、忘れないうちに書き留めておくんだ」
「へぇ……」
「かつての自分が全力で仕事をした場所で、苦楽を共にした仲間達に逢うのは、良い刺激になるのだろうね……彼らが元気なら、私も安心できるし」
 先生は、血の通った優しい物語を書く、心優しい人である。
「人の手で作られた物を見ていると、少なからず感化されるし、彼らと共にそこで働いた日々のことを思い出すうちに、物語を『書かなければならない』という強迫観念が『できる限り良質なものを、書きたい!』という、前向きな創作意欲に変わるんだ」
口調こそ元気そうだけれど、先生の表情は少し硬い気がした。体調が良くないと言っていたし、かつての同僚や上司に会うというので、少なからず緊張しているように見受けられた。
「私としては、絵本を書きながらでも、もう一度そこでアルバイトをしたいくらいなのだけれども……岩くんが、絶対に許してくれないのだよ」
「先生が怪我をしたら、困るからじゃないですか?」
「私も、そう聴いている。……しかし、私にも【職業選択の自由】はある」
(日本国憲法の話だよな?)
「彼は、先生の健康管理に人生を懸けてるんですよ、きっと……」
町工場というのは、死亡事故さえ起こりかねない危険な場所である。眼や手先を酷使するし、絵本作家との兼業など、させるべきではないという彼の判断は、間違ってはいない。
 憲法上の権利としては、もちろん先生にも副業をする権利はあるけれど……。


 目的地は、やけに駅から遠い場所だった。先生が、何らかの理由で特定の路線を避けたか、長い距離を歩くために、あえて最寄りではない駅で降りたような気がする。
 着いた頃には、すっかり暗くなっていた。

 僕が辞めた工場よりも、社屋は大きかった。僕の知らない社名だけれど、大きな看板が、堂々と掲げてある。
 溶けた金属による熱気や臭気は、感じない。町中の自転車屋でするような、機械油とゴム素材の匂いがする。外から見える場所には、見慣れた工作機械は置かれていないけれど、奥でそれらが動いているのは、音で判る。
 何故か……わくわくする。

 ハロゲンランプに照らされた、屋外にある喫煙所で、一人で煙草を吸っている人がいた。使い込まれた ぼろぼろの作業着を着たおじいさんだった。70歳前後だとは思うけれど、背筋は伸びているし、足腰もしっかりしている。髪も ひげも白いものが目立つけれど、威風堂々として、貫禄がある。
 この道一筋……50年くらいか?
 あの工場には、ここまで高齢の職人は居なかった。経営陣の一員であると同時に、類稀なる身体能力の持ち主に違いない。
「ご無沙汰しております、工場長」
 先生が、少し緊張した様子で、彼に挨拶をした。僕も、初対面の工場長に、お辞儀だけはした。
「おぉ!また来たのか!お疲れさん!」
 工場長は、先生の顔を見るなり、笑顔になった。動きや表情は、若い。生き生きとしている。
「元気か?……調子はどうだ?」
「相変わらず、一進一退です……」
「そうか」
 工場長は、先生の脇に控えている僕に気付くと、先生に「友達か?」と訊いた。
「はい」と答える先生。
「そうか……!」
工場長は、何故か嬉しそうに僕の身体を様々な角度から見ている。
「こいつは……良い旋盤工になりそうだ!」
「就職希望者ではありませんよ」
「何!?……残念だな」
工場長は、アニメーション映画の登場人物みたいに、表情豊かで、声が大きい。見ているだけで元気が貰えそうな、活力に溢れた人だった。

 過去には、先生の紹介で就職した人が、何人も働いていたのだという。
 今回も、それを期待されたようだ。

 工場長が着ているのと同じデザインの、それでも比較的新しい作業着を着た若い人が、別棟から出てきて、足早に歩いてきた。手には白い紙を持っている。FAXで受注した製品の図面に違いない。
「あ!先生、こんにちは!」
「こんにちは」
「お邪魔しております」
時間に追われているのだろう。黒い粉にまみれた彼は、挨拶だけしたら、すぐに現場内に消えていってしまった。僕には見向きもしなかった。
「彼は、先代の工場長のお孫さんなんだ」
先生が、何故か小声で教えてくれた。
 僕は「そうなんですか」としか言えなかった。

 先生が、工場長の耳元で何かを告げると、工場長は「中には入るなよ」と、社交辞令らしき薄っぺらい返事をした。それを聴いた先生は「拝承しました」とでも言いたげに一礼してから、まったく足音を立てないで、忍者のように現場の建物の裏側に消えた。
 裏口か窓から、懐かしい現場内を覗き見るためだとは思う。
 僕は、工場長と共に置き去りにされた。

 工場長は、帰るわけでもなく、現場に戻るわけでもなく、次の煙草に火をつけた。先生が戻ってくるのを、待っているのだろう。
 朝から出社しているのなら、明らかに定時を過ぎている時間帯のはずなのに、事務所も含めて、誰も帰る気配がない。身に覚えのある光景だった。
「先生、戻ってきませんね……」
「いつものことだよ」
工場長は、満足げに煙草を咥えたまま話す。
「あの……ご迷惑には、なりませんか?僕までお邪魔してしまって……」
「他の退職者なら、追い返すけどな。
 あいつは……株主だから。優待だ」
「先生、株主なんですか!?」
「さっきの『先代の孫』に比べりゃあ、微々たる枚数だぞ」
会社の存続や経営方針に関わる重要な話であるはずなのに、子ども同士がゲームの点数を競っている話をするような、軽い感じだ。
 工場長は、煙草の火を消した。
「そんなことより、おまえ、あいつの家で料理のバイトしてるんだろ?」
「そうです……!」
見透かされたことに、驚いた。
「やっぱりなぁ。いかにも『雇われの身』って感じだ」
そう言う工場長は、いかにも『老師』だ。
「ものづくりに、興味はあるか?」
「え……?」
製造業に未練がないわけではないけれど、今の仕事を辞める気はない。ダブルワークをするほどの体力もない。そこまでして月収を増やす理由が無い。
「待機が長いだろ?退屈しねえか?」
本気で、戦力として勧誘されている気がする。怖い。
「あいつが認めた男なら、うちは大歓迎だ」
「いや、僕は……機械操作が、あまり得意ではなくて……」
「何!?経験者か!……尚、歓迎だ!!」
なんて勘の良い人だろう。しかし、大学の部活勧誘みたいなノリが、やはり怖い。
「ごめんなさい。僕はポンコツです……」
「何を言うか!そんな、恵まれた身体があるのに!!」
病身であることは、言わなかった。


 先生は、まだ戻ってこない。


次のエピソード
【18. 帰路】
https://note.com/mokkei4486/n/n068b2027323a

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