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小説 「僕と先生の話」 37

37.共助

 無事に転職先が決まり、新しい生活が始まった松尾くんは、慣れない環境への戸惑いを見せつつも、会社の関係者である先生の助けを借りながら、着実に自立への道を歩んでいた。
 とはいえ、僕は相変わらず彼の家へ洗濯や掃除を手伝いに行っていた。今は新しい仕事のことで頭が一杯らしく、家の中はいつも雑然としていた。彼の家で何品か おかずを作って帰ることもあった。
 彼は、先生の家に滞在していた頃に比べれば、すごく元気になったけれど、今でも「足元がふわふわする時がある」そうで、新しい勤務先でも製図や事務等のデスクワークが多いという。また、製造業の現場に戻れるほどの精巧な義手は非常に高価であるため、今はまだ手が出せないという。

 彼の家に行くと、僕はよく爪切りを頼まれる。左手を失って以来、右手の爪をうまく切れないことが、ささやかな悩みだという。
 その日も、僕は彼の右手の爪を切っていた。おかげさまで、僕は他人の爪を切るのが かなり巧くなった気がする。
 もちろん、やすり掛けも巧くなった。
 僕は、口には出さなかったけれど、今後、彼が小さな怪我でもして、絆創膏や湿布を貼りたい時、不便だろうなと思った。
「ありがとうございます」
「なんもなんも」
 やすり掛けまで終わり、僕はゴミ箱を部屋の隅に戻した。
 彼は、自宅でも食事中と入浴時以外は絶対に黒マスクを外さない。本当に、別人のように口数が減り、ため息が増えた。マスクに隠れているとはいえ、明らかに表情が乏しくなった。
 先生は、彼が家に来ている時、よく彼の頭を撫でたり、肩を揉んだりしている。彼は、基本的には されるがままにしている。
 彼は、先生の前でも、あまり話さなくなった。耳は ほとんど治ったようだけれど、今でも心療内科には通っているはずだ。
「そういえば……漫画、減りましたね」
「だいぶ売ったんすよ。読む暇が無くなってきたんで……」
本棚に収まりきらないほどあった漫画本が、激減している。
 先日、先生に車を出してもらって、漫画本の大半とゲーム機を中古屋で売ってきたのだという。

 しばしの沈黙があって、彼が不安げに言った。
「あの……坂元さん……もう、先生から聴いてるかもしれないんすけど……」
「何ですか?」
「俺……先生に『一緒に暮らさないか?』って言われたんすよ……」
「暮らす?……え、前みたいな滞在ではなくて、同居……ですか?」
「あ、はい。『役所に紙を出せばいいだけだから』って……」
(もはや、プロポーズじゃねえか!!)
「え……。僕は、別に……松尾さんが来ても、今のまま飯作って、掃除するだけですよ。お二人の関係には、何も……」
とは言ったけれど、内心、動揺していた。
 彼も、戸惑っているようだった。
 彼は、決して先生のことを嫌っているわけではないし、事実として一人暮らしは難しく、こうして日常的に僕の手を借りている状態であるから、同居の提案はありがたかったのだという。
 しかし、幾度となく激昂した先生に殴られたことを忘れたわけではない彼は、僕に「不安だ」と打ち明けた。
 僕は、先生の病態について、岩下さんが僕にしたような詳しい説明をすべきか否か、すごく迷った。彼は「従業員」として就職するのではなく、先生の「家族」同然の扱いになる。何かを語るなら、先生ご本人からでなければ……ただのアウティングになってしまう。
 しかし、あえて僕を選んで相談してきた彼の不安を、どうにかして取り除きたい。
「僕よりもずっと、先生との付き合いが長い人が居るので……その人にも、相談してみましょう」
「……哲朗さん、ですか?」
「そうです」
彼は、名前しか知らない人物に込み入った相談をすることに対し、不安そうだった。しかし、本当に先生と同居するなら、先生が全幅の信頼を置く編集者 岩下さんとの引合せは、必須だ。

 帰宅後、僕は岩下さんに電話した。彼は、すぐに出てくれた。
 僕は、松尾くんの現状と、先生から彼に同居の提案があったこと、彼は応じるかどうか迷っていること……僕は、先生の病態について彼にどう伝えるべきか迷っていることを、端的に説明した。
 彼は、至って冷静に相槌を打ちながら聴いてくれた。そして、一度小さく唸ってから、至極合理的な答えをくれた。
「坂元さんが、松尾さんの家で家事を手伝う時に私が合流する……という形で、3人で落ち合うのが、最良かと思います」
「わかりました」
 僕が次に彼の家を訪ねる予定の日、岩下さんはスケジュールを空けてくれた。


 当日、アパートの最寄駅まで僕が岩下さんを迎えに行き、そこで落ち合ってから、松尾くん宅まで案内した。
 家主が、玄関で出迎えてくれた。
「この人が、哲朗さんですか?」
「そうですよ」
「はじめまして」
岩下さんは、恭しくも友好的な意思を感じさせる口調で挨拶をし、彼に名刺を手渡した。
 不安げな松尾くんは、実年齢よりもずっと幼く見えた。
「お邪魔します」
他者の住宅に出入りすることに慣れている岩下さんは、ごく自然な立ち居振る舞いで、雑然とした松尾くん宅の居間に進み、荷物を置いて上着を脱ぐと、家主に一言かけてから、腕捲りをして流しで手を洗い、台所周りの片付けと掃除を始めた。
 松尾くんは、決して速くはないけれど無駄のない動きで淡々と作業する彼の後ろ姿を、黙って見ていた。彼の頸や腕の傷痕に、おそらく気付いている。
 僕は洗濯をするために、家主に断ってから その場を離れた。ついでに洗面台を軽く掃除してから居間に戻った。
 岩下さんは、流しをピカピカに磨きあげてから、改めて自分の両腕を石鹸でしっかりと洗った。小さく「ふぅ」と息をついてから、家主に「次は、どこをやりましょうか?」と訊いた。松尾くんは「相談したい事があるから座ってほしい」と答えた。
 
 3人で食卓を囲んだ。(僕は半ば職業病のように、無意識のうちに3人分の茶を用意した。)
「あの……俺が先生の家に1ヵ月くらい居たこと、哲朗さんは知ってますか?」
「はい」
「俺……また、その時みたいに、先生の家で、一緒に暮らさないかって……誘われてて……」
緊張のためか、彼の眼が左右に揺れ始める。
「私は、先生の交友関係にまで口出しはしません。貴方が先生と同居されることになったとしても、これまで通り、担当編集者としての仕事をするだけです」
「……哲朗さんは、先生の家に泊まることがあるでしょ?」
「泊まり込みは……ご家族が増えることによって、必要性が無くなるかもしれません」
「あの、俺…………夜中に、先生に『哲朗はどうした!!?』つって、ボコられたことがあります……」
「え!?……あの、3階に立ち入って、殴られた時の話ですか!?」
僕は、思わず割り込んだ。
「そう、です……」
「あの家に宿泊する人間は、私か善治さん以外にありえませんでしたから……夜間に思いがけず貴方と出くわして、驚かれたのでしょうね」
「いや、でも……!」
「先生には、記憶障害があるのです。……ご存知ないですか?」
「記憶障害!?」
「ご存知なかったようですね……。
 貴方が滞在し始めて間もない頃で、そのことを、仕事に追われる中で、一時的に忘れてしまわれたのだと思います」
「忘れた……!?」
「慣れないうちは、驚かれると思います。しかし、障害の程度としては軽いものです。日常生活や、作家としての業務には、大きな支障はありません」
僕は、それにもう慣れてしまった。

 岩下さんの答えに衝撃を受けたのか、松尾くんが、苦しそうに大きく息をし始めた。
「あの……哲朗さん。俺、すんげえ、馬鹿みたいなこと言うんすけど……」
彼は、目で応える。
「俺……あの先生……『二重人格』じゃないかと思うんです」
僕は、何も言えなかった。彼は、至って真剣にその言葉を口に出したのだ。
「どうして、そう思われるのですか?」
岩下さんは、至って冷静である。
 松尾くんは、その冷静さに困惑しているようだった。しかし、言葉を詰まらせながらも、思いの丈を、努めて冷静に話す。
「俺を、殴ったり、怒鳴ったりするような時の先生と……普段の、優しい先生が、同じ人格に思えないっていうか…………すげぇ怖い時の先生が、男の人にしか見えないっていうか……」
僕も、先生の顔つきや声色が一変する瞬間があることには気付いていた。しかし「人格が違う」という点にまでは、思い至らなかった。単なる「病理的な激昂」としか捉えていなかった。
 松尾くんは、僕や岩下さんがどのような反応を示すのかが、かなり不安なようだった。
「明らかに声が変わるし……女の人じゃ、ありえないような力で……殴ったり、蹴ったり……物を投げたり……」
そういえば、僕が玄関先で激昂した先生と競り合いになった時、先生が腕一本で開けようとするドアを、僕は肩で押しても閉められなかった。
 それよりも、先生が、静養中だった彼に そこまでの暴力を振るっていたことが事実なら、もっと早く気付いてやれなかったことが、本当に申し訳ない。
「でも……それを、優しいほうの先生は、何も憶えてないっていうか……『知らない』みたいで……。いや、あの、信じてもらえなくてもいいんですけど……!」
基本的な人格とは別に『交代人格』というものが存在する人は、確かに居る。そのような精神疾患は、実在する。僕はその当事者を、映像でしか見たことがないと思っていたけれど……日常的に目の当たりにしていたのかもしれない。心的外傷とフラッシュバックのことばかり気にしていたから、盲点だった。
 いずれにせよ、僕は彼の証言や推測を「妄言」だとは思わない。

 おそらく全てを知っているはずの岩下さんは、いつも通り、至って冷静である。
「私の見解としては……先生方がいかなる疾患であったとしても、作家は作家であり、編集者は編集者です。私達が、何をしなければならないか……何のために会うのか、そこに変わりはありません。健康な方と仕事をする時と、同じです」
まっすぐに松尾くんだけを見て、彼に語りかける。
「貴方の目撃証言を、私は信じます。しかし、吉岡先生が『二重人格ではないか?』という疑問について、私からお答えすることは出来ません。先生のプライバシーに関わります」
松尾くんは、黙り込んだままだ。
「貴方は……仮に、先生が本当に『二重人格』であった場合、それを理由に、関係を絶とうと思われますか?」
難しい問いに、松尾くんはなかなか答えられずにいた。
 しばらく迷ってから、口を開いた。
「俺は……優しい先生が好きです」
至ってシンプルな答えが出た。
「怒らせてしまわないように気をつけて……これからも、一緒に出かけたり、飯を食ったり、したいです……」
彼の答えを聴いて、岩下さんは、安心したように息をついた。そして「良かった」と小さく呟いて、恭しく頭を下げた。
「今後とも、宜しくお願い致します」
「え……え……」
松尾くんは、戸惑っている。
「私から先生に、貴方にどこまでの暴力を振るったか……憶えているのか、確認してみます。再発防止について、私も一緒に考えます」
「え……あ……よろしくお願いします」
深々と頭を下げた松尾くんは、気疲れしたのか、明らかに元気が無かった。


 話が終わったら、何事も無かったかのように、僕は洗濯物を干し、岩下さんは松尾くんの寝室を片付け始めた。僕も、後からそれに合流した。松尾くんは、ほとんど「口だけ」の状態だったけれど、僕らは、これをするために来ている。何とも思わない。
 彼が先生の家に引越してくるなら……と、本格的な『断捨離』が始まった。


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【38.「変わらない」】
https://note.com/mokkei4486/n/n70eab1246f88


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