小説 「僕と彼らの裏話」 27
27.養生
急な連絡から2週間以上経っても先生は戻らず、僕の「待機」は続いていた。リフォーム完了後の新生活に向けて貯金を温存すべく、僕は至って慎ましやかに日々を過ごしていた。
そんな中、再び哲朗さんから誘いを受け、この日も2人でスーパー銭湯に来ていた。
前回と同じ施設で、のんびりと露天風呂に浸かる。
彼は、宮ちゃんとは名刺交換を機にメールのやりとりをするようになったらしく、リフォームや引越しに関することの概要を、僕が話す前に知っていた。
彼女は、哲朗さんの担当作品に興味津々というだけではなく、彼の勤務先への【転職】を視野に入れている。本州への移住後も 今の勤務先でのテレワークを続けるか、他社へ転職をするか、複数の企業の待遇等を調べながら、入念に検討している。
「千秋さんが作ったネット上の動画、拝見しましたよ。……大変 良質な教材だと感じました」
「恐れ入ります」
「私に人事権はありませんが……個人的には、ぜひとも弊社に応募していただきたいなと……思いました」
出版社としては、やはり「元国語科教諭」は魅力的な人材なのだろう。そして『法定雇用率』確保のためにも「ぜひとも欲しい」のだろう。(哲朗さん自身も『雇用率』には貢献している。)
「本人は……今の会社を辞めるかどうか、まだ迷っているようです」
「今は、遠隔でも仕事が出来る時代になってきましたからね……」
湯の中で、彼は「自分はテレワークが嫌いだ」という話をしてから、紙の本や「仕掛け絵本」の魅力を、湯の雫を散らしながら懇々と語り「画面越しでは、正確な色味や紙の手触りが判らないから、仕事に ならない」とまで言い切った。
その後も、複数人が同じ場所で同一の【実物】を見ることの重要性について、彼は熱く語る。
僕は のぼせそうになってきて、湯船の中にある段差に座り、臍から上は空気に晒した。
「ところで、哲朗さん……。実は、先日……僕は奇妙な体験を致しまして……」
「奇妙……?」
彼は、依然として胸まで湯に浸かったままだ。
僕は、駅で熱中症になって気を失い、救急搬送され、その間に【過去】の辛かった事を延々と叫んでいた……という、彼女による証言を端的に話した。
「僕自身には、叫んでいた記憶が全く無いのですが……」
「それは……驚かれたでしょうね。お二人とも……」
彼は「意識障害」というものについて話す時、いつだって冷静だ。信頼できる。
「今日は、長湯せずに早く上がりましょう」
「すみません……」
「とんでもないです。これは、私の我儘ですから……」
風呂から上がった後、僕は哲朗さん行きつけの店で、最高ランクの黒豚の しゃぶしゃぶを ご馳走になった。その肉は、口に入れるだけで、しばらく笑いが止まらなくなるほど……美味い。味付けが どうこうではなく、肉そのものが美味いのだ。
温泉や岩盤浴で身体が芯から温まり、血行や消化吸収が良くなっているうちに「良質な肉と野菜」を たらふく食べて、しっかり栄養を摂るのが、彼にとっては最上級の【健康法】なのだという。
「月に数回の、贅沢です」
「いや、大事ですよ。そういうの……!」
エネルギーの【充填】は大事だ。
僕らは、しばらく貪るように豚肉と野菜を食べ続けた。(米は あえて注文していない。)『陰陽』のマークのような形に分割された鍋で、2種類の出汁が煮えている中に、どんどん食材を放り込む。
出汁が煮詰まってきたら、店員を呼んで追加してもらう。
僕が満腹になって「ごちそうさま」を言っても、彼は相変わらず凄まじい量を食べる。それでも太らないことが不思議でならないし、金額を気にせず腹を膨らませられる経済力が……「凄い」の一言に尽きる。
「千秋さんの、お好きな食べ物は何でしょう?」
「えっ……。鮭と、肉類全般ですかねぇ」
「なるほど」
「……どうされました?」
「あ、いや……。遙が、坂元さんの『奥さんに会ってみたい!』と言うので……。良かったら、いつか一緒にお食事でも……なんて、思いまして」
「本人に、訊いておきます」
「よろしくお願いします」
いよいよ彼が手を合わせ「ごちそうさま」を言った後、僕は なけなしの勇気を振り絞って言った。
「引越しが終わったら……僕らの新居に、遊びに来てください。はるちゃん達と一緒に……」
「良いんですか?」
「はい、もちろん。……前みたいに、泊まりに来ていただいても構いませんよ。彼女も哲朗さんのファンなので、きっと喜びます」
「……恐れ入ります」
熱い茶を飲みながらの、食休みは続く。
「先生が、いつ お戻りになるか分からないので……僕は今『無職』同然なのです」
「副業は、されていないのですか?」
「僕は、しません。体力的に……自信がありません」
彼は、何も言わず複数回小さく頷いた。
「例の……『工場長』が、何度も坂元さんを勧誘されたそうですね……」
「ど、どうして、それを!?」
「吉岡先生から、伺っております」
訊くまでもなかった。
「先生は……例の町工場に、今も『ぞっこん』ですから。『どちらが本業だろう?』というほどに、入れ込んでおられます……。お身体のことがあるので『頼むから、現場には出ないでください!』と、私は何度も頭を下げて、時には怒鳴りましたが…………今も【株主優待】などと言って、無償で雑務をされているでしょう?」
「先生にとって……あの工場は『創作意欲の源』だと、お聴きしております。大切な神社や お寺のような……いわば【聖域】であると」
彼は、目を閉じて、大きく息をついた。
先生を大切に想うからこそ、言いたいことは山ほどあるのだろう。眉間に、深い皺が寄る。
「あの先生は……本当に、筋金入りの【クリエイター】ですね……!」
「僕も、そう思います」
「そして、悠介さんも……同じく、ですね。彼の【創作意欲】も、尋常ではない……!!」
「哲朗さんの、出版への意欲も……相当なものだと、お見受けしますよ」
「私は……もう、引退しました。『ギブアップ』です」
違う。ご家族のための【勇退】だ。
彼が、伝票を手に取る。
「それでは……近いうちに、再び坂元さん宅に“匿って“いただきましょうかね」
「は、はい!お待ちしております!」
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【28.癒しの技】
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