読書日記・幻想を抱きすぎてる
10月15日(火)
『10代からの文章レッスン』を読んだことで、もう少しちゃんと文章を書きたい気持ちが高まっている。のだけど、しかし私は文章を書く時間を後回しにしがち。書きたい気持ちはあるけれど、文章を書くことはとりあえず後にしよう、先にやることがあるだろう、という気持ちが強い。
もしもこの「文章を書く」が仕事になっていたとしたらどうだろうか。私は何よりもまず先に文章を書くだろうか。だとしたらそれは、お金のためだから動く人間ということであり、自分がなんだか残念な人のように思えてきた。
お金は大事だけど、お金がすべてになっている気がしていて、先日の夫との会話もそうだけど、私はお金があったらすべてが上手くいくと幻想を抱きすぎなんじゃないか? なんてことを考えていた。
10月16日(水)
尾崎衣良さんの『真綿の檻』最新刊を読んだ。4巻までの流れが重苦しくて辛いものだったので、内容が変わる5巻でどうなるだろうかと思っていたら、こちらはこちらで親として、子どもとして考えさせられる内容だった。
「毒親」という表現が出始めてから、親のふるまいについて考えることが増えたと思う。実際に自分が育てられた方法は正しかったのか、現状で子育てしている私のやり方は間違っていないか、そんなふうに正解か間違いかで判断してしまっている自分がいた。
しかしこの本を読んで、正解とか間違いという以前に、同じ出来事でも見ている人の視点になればまったく違った話になるんだということを思い出し、正解とか間違いとか、そういったくくりで片づけられる問題じゃないんだと思った。
子どもが親におもちゃをねだる。親は「買わないよ」と言う。子どもは買ってもらえなくて大泣きする。しかし親には親の事情があって、子どもにおもちゃを買ってやりたい気持ちはあるんだけれど、家にお金がまったくなくて、借金もこれ以上できないというところまで追いつめられているかもしれない。
しかし子どもにそんな事情は理解できないし、たとえ子どもが家にお金がないことを理解したとしても、子どもはおもちゃを買ってもらえないことだけが気がかりなことであって、親の借金などどうでもいいと思うかもしれない。そうして子どもは「自分の親は何も買ってくれない親だった。私は愛されていなかった」と話を大きくする未来があるかもしれない。
そんなことを考えたマンガだった。自分が親に対して抱く感情はもちろんのこと、子どもたちが私に対して抱く感情も、なかなか思う通りにはならないなと思った話だった。解釈ひとつで変わる現実。こわいね、おそろしいね。
10月17日(木)
小塩真司さんの『「性格が悪い」とはどういうことか』を買った。自分の性格の悪さについては大きな自信があるので、この本に書かれていることがどれだけ当てはまっているのかドキドキする。
しかしパラパラと読んでみるかぎり、私にとっては少々難解な文章の可能性があるため、内容をすべて理解できる自信はなくなった。でもいいのです。大まかにでも理解できるところがあれば、それでいいのです。本を隅から隅まで理解しようなんて、理解できると思うなんて、自分を過大評価しすぎだ。私にそんな頭脳はない(開き直った)。
10月18日(金)
半藤一利さんの『昭和史』が原作だと知ったので『昭和天皇物語』を読み始めた。『昭和史』は分厚いために、なかなか読み進められていないのだけど、『昭和天皇物語』のほうはマンガだし、流れがゆるやかなので大変読みやすくて一気読みしそうな予感。
実際のところはよくわからないけれど、このマンガを読むと昭和天皇が一人ぼっちに見える。誰もが天皇を敬っているようでいて、実はそうでもないように見えるんだけど、どうなんだろうね。情勢がそうさせているのか、もともとそういうものだったのか。私にはちっともわからないけれど、物語としては面白いので続きが気になる。