気になるけれど手が出せない
私は久世番子さんのエッセイに弱い。見かけると即購入したくなる。
最近購入したのは『よちよち文藝部』。
『よちよち文藝部 世界文學扁』は持っておらず、ずっと読みたいと思っていたので文庫化されて嬉しい。
国内編は単行本で持っているし、何度も読んでいるのだけど、何度読み返してみても谷崎潤一郎作品に対して「うげ~」という声が出てしまう。有名な『細雪』をチャレンジしたい欲も以前はあったけれど、番子さんのマンガを読んでから欲はすっかりと消え失せた気がする。
ただ、怖いもの見たさは消えておらず、書店で見かけた『谷崎マンガ』をチラッとめくったことはあった。
めくった先が悪かったのか、それともこの本のタイトルにもあるように谷崎作品が「変態」なだけなのか、この本をめくりながら「ひっ!」と声が出てしまった。思っていた以上に変態だった。変態のレベルが違った。いや変態のレベルって基準は万人共通じゃないけどもさ。
マンガになれば描写はストレートになるので、気持ち悪さもストレートに私の中に入り込むのかもしれない。文章であれば気持ち悪さも減るのだろうか、それとももっとダイレクトに気持ち悪いのだろうか。
そんなことを考えてしまうと谷崎作品を敬遠してしまいたくなるのだけど、でもなぜか惹かれてしまう部分もあって。それはやはり怖いもの見たさでしかなくて、ただ興味本位で手を出すと、やけどでは済まない傷を負いそうでもあり、やすやすと手を出してはいけない領域だろうとも思うわけで。
そして何よりも怖いのは、その「変態」具合がクセになったらどうしようということで、「変態バンザイ」になってしまえば、私も「変態」の仲間になるということで、それがとても怖いのであった。
いや今でも自分が「変態」だという認識はあるのだけども。これ以上の「変態」になる勇気が自分にはないだけ。「変態」に対して勇気もへったくれもない気はするけれど、たとえ持って生まれた「変態力」があったとしても、「変態」をきわめることが私には出来そうもなくて、覚悟が足りない自分をつまらないと感じる。「ド変態」になりたいわけじゃないので覚悟する必要はない気もするけれど。そして私はどれだけ「変態」の話をしているのか、この時点でもう「超変態」じゃないか。「変態」がバレるのは困る(時すでに遅し)。
やはりここは覚悟を決めて「ド変態」へと進むべきか。これ以上「変態」を強化しない道を選ぶべきか。おそらく後者のほうが良い。ただ、「ド変態」になるほうが面白いはず。人生に笑いは必要。その笑いがたとえ自分だけの面白さであったとしても。