おがくずの中で その➁
前回までのあらすじ
その➀執筆中、書きたいことが多すぎて着地点を見失った私は、3年前に書き起こしたメモの存在を思い出した。そこには意気揚々と筆を取り、公開に至る前にそのままその握力で筆をぶち折ったような痕跡があった。今とは少し違う感性で書かれたそれは、そのまま今の文章と繋げるには違和感すぎて、かと言って封印するには惜しかった。
この忘れ去られていた想いに触れてしまった以上、責任を持ってこの手で成仏せねばなるまい…
以下、多少の修正をしつつほぼ当時の文章をペーストしたもの。
好きなものについて語ろう会
曖昧な物言いになるが、私は造形物が好きなのだと思う。なぜ推測かと言うと、自分でも分からないほど好きが細分化されていて、断定の形でお伝えするとどうにも語弊が生じるように感じたからだ。アンケート風に答えるならば、どちらかと言えば当てはまる、といったところだろう。とは言え、主題にしたからにはそれなりの持論はあるつもりだ。
ちなみに造形物と言ったものの、範囲がデカすぎるし何か特定の作品に思い入れがあるわけではなく、漠然としたモノの形へのこだわり論に近いように思う。□より○が好きだとか、Ζ(ゼータ)よりν(ニュー)だとか、本当にささやかな好みの話をするつもりだ。私がものづくりを始め、考え得たことと普段の生活の中で私をときめかせる愛らしい物について語ろう。
ところで、誰しも時間ができたらやりたい事の一つや二つ持っているはずである。私にとってそれは木を彫ることだった。暇を極めた大学時代、木材と睡眠時間を削って作品を作る事に夢中になった。おそらくその作業を通して理想の作品について考えていくうちに、造形に対する明らかな好みの傾向を自覚したのだろう。
まずはバターナイフとスプーンを彫った。初めの一本こそまともな姿をしていたが、思ったような使い心地にならなかった。せっかく完成させたバターナイフだったが、一度も使われることなく観賞用に回された。やはり便利さでは百均のステンレス製のものには遠く及ばなかった。二本目からは実用性ではなくシルエットの面白さに全振りする事にした。
模範的な物の形という呪縛から解放された私は自由だった。とんでもない形のカトラリーを考えるのは楽しかった。実用性はなくとも、私が見て触って楽しめるものを目指したが、その中でも私が重視したことは曲線だった。
滑らかで自然な曲線ほど美しい物はない、と私は思う。確かに規律正しい直線や角の美しさも理解できるのだが、それはあまりにも冷たすぎるように感じるのだ。少し両極端な言い方にはなるが、規則正しさは時に危険を感じさせる。対して丸みを帯びた物は人に厳しさを与えることをしない。それ故か私は丸っこいものを見るとつい触りたくなってしまうし、もし物理的にぶつけられるのならできれば丸くて柔らかいものにしてもらいたいと常々考えている。
話を戻すと、つまり自然な曲線というのは生活の中に馴染みやすいものだと言いたいのだ。実際にバリアフリーのためにぶつかっても痛くないように角を丸めた壁というものがあったと思うのだが、つまりはそれに近いことが言えるのではないだろうか。丸みには人を迎え入れ魅了する何かがあると感じるのだ。加えて作品として成立させるとしたらそこには馴染みやすさだけでなく、洗練された美しさがあっても良いだろう。それを付与するにはメリハリが必要になってくる。
スプーンでいう所の首のあたりが見せ所である。掬う部分を頭と見たとして、そこから持ち手にかけて途中で細くなっている部分のことだ。持ち手に流れるまでのラインで一度キュッと良い加減にくびれることで、ぼやけて膨張したスプーンの輪郭を鮮明にさせることができる。膨らみとくびれのバランスをいかに取るかが作り手のセンスと技術にかかっている。思いのままに細く削いで曲線を作りさえすれば良いというわけではないのだ。本当に良い物にするには最適な輪郭に常に敏感でなければならず、ある程度の自制と計画性が必要になってくる。
削るという作業は一方通行であり、過ぎてしまえば全ての形が変わってしまう。
実際に私が彫った時にまんまと失敗したのがここであった。二本目のスプーンは細さと曲線を目指すうちに全体の佇まいを意識するのを忘れたのだ。さらに悪い事に途中で迷いが生じた。我を忘れて木を彫る感触を楽しみ、挙げ句の果てに着地点を迷っていた。出来上がったのは貧相で具合の悪いしめじのようなスプーンだった。雑念を一身に受けたような形をしており、仕上げる前になんだかやる気を失って文字通り匙を投げたのだが、時間を置いて私の内面が変化したのだろう、改めて見るとそれはそれとして面白く思えたので完成させてやった。やる気さえあれば一週間以内に完成する代物だが、これには実に一年かかった。
ちなみに私が一番時間をかける作業はヤスリがけだ。荒削りのポリゴンのような作品を滑らかにしていく作業で、これに時間をかけるのとかけないのとでは新旧FF7くらいの差が出る。(訳のわからん例え話を膨らませて申し訳ないが、この文章を公開するまでの間にまた新しいのが発売されたらしい。)これをしないと先に述べたような美しさが出ないのである。木材ブロックから彫り出され剥き出しにされたばかりの姿には硬く攻撃的な印象を受けるが、ヤスリで角を撫でることで艶と潤いが出てくる。これでようやく場に馴染む姿に変わるのだ。なかなか大変な作業ではあるが、これだけはやりすぎて悪くなるようなことはないため、毎度時間をかけてしまう。
たとえ指が痛み粉塵にまみれた部屋で食事と共にオガクズを口に入れようとも、丸みを帯びた木材のつるりとした愛らしい感触を手に入れたくなってしまうのだ。
…ここで手記は途切れている。おそらく筆者は一度死んだか失踪したのだろう。
三年の月日が経ち、悩んだ事も楽しかった事も輪郭が曖昧になり、生まれ変わったというほどではないが軽い変態を遂げたあたりでこの文章を読み直した私は、いたく共感した。
こんなこと考えてたんだ…まあわかる…
これを受けて今の私が続けるとしたらこんな感じになるだろう。
簡単にまとめると私は丸っこいものが好きなのだ。
点と点が線になり、それが描く直線が細かく連なれば曲線になる。ぼくは数学が苦手だったが、この話は二次関数とかいうよくわからん授業を聞いた時腑に落ちた記憶がある。まずは点とそれを繋ぐ直線があっての曲線なのだ。曲線は直線を内包する。『硬い』が『柔らかい』を表現するところが面白いのだ。
無理やり木を彫ることに当てはめて言えば、ナイフで削る作業は直線を作り、やすりの作業は曲線を作る、と言えるだろう。角を丸めて手に優しく、生活に馴染む。触れるなら柔らかくいたい。
硬いものから柔らかなものが出来上がるから感動するのである。
またしても風呂敷を広げすぎて畳みきれなくなってきたのでここらで不時着する。若干強引な気もするがこれで終わりとしたい。
ものひとつ語るにも、こちらを立てればあちらが立たずで、全てを説明するのは難しいと言うことを痛感した。意外と相反するものが物事を構成していたりする。安易に物事を断定しないようにしたいものだなあ。
さいごに、木を彫っていて気付いたことだが、物事に集中している時というのは自分の身体を忘れるということに近いと思う。無我夢中というか、辛い体勢でも自分以外に意識が集中していれば平気で何十分と同じ姿勢を保てたりする。私は踊りをやっているのでその点に関しては非常に都合が悪いと感じているのだが、物事に従事するために身体という奴は平気で最適化しようとするのだなあと感心した。天井に絵を描く画家が骨を変形させるように、心が打ち込むものに対して素直に近付こうとするのは身体なのかもしれない。
一応、私の本分は踊ることにあるので身体が変形しない程度に木を彫ったり絵を描いたりバイトをしたりと生きて行こうと思う。
私を構成するのも、一つではないのだ。真面目に考えただけあって綺麗にまとまったと思うので終わります。
次回はあんま何も決まってません。何書こうかな。