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姑はイタリア人
ジローラモ氏は罪深い。
多くの日本人に誤ったイタリア人のイメージを植え付けてしまったからだ。
すべてのイタリア人が必ずしも情熱的で感情豊か、陽気でおしゃべりな人間とは限らない。
残念ながらうちの義母は
典型的なステレオタイプのイタリア人だ。
アモーレの人だ。
さて、典型的なイタリア人母とはいかなるものだろう。
まずその顕著な特性は
家族愛がめちゃくちゃ強い。のだ。
特に息子に関してはその愛は重い…。重過ぎるのだ。
おそらく複雑な家庭事情により、長い間息子と離れて住んでいた経験もあってか、義母の我が夫チャリ氏に対する執着心は底知れない。
その愛情表現方法は、目の前にいる30歳過ぎたおっさんを、まるで5歳児のように扱うほど異質なものである。
特筆すべきは、義母は未だにチャリ氏のことをCiccio(チーチョ)と呼ぶことだ。
Ciccioとはイタリア語で「ポチャッと太った男の子」の意味だが、大体お腹がぽっこり出ている頃の幼い男児に向けて親しい間柄が使う愛称である。
ある意味下っ腹はポチャッとしてきたチャリ氏だが、無精髭を生やしたおっさんが「チーチョ♡チーチョ♡」と還暦目前の母に撫でまわされている光景を目の当たりにするのは、異国から嫁いできた者にはなかなかきつい。
夫には6歳年下の妹もいるが、妹にはここまで過剰な愛情表現は少ない。どちらかと言えばひとりの大人の女性として扱っている場面が多いように思える。
これも「母」も「女性」も尊重する、イタリア人女性の特性ではなかろうかと私は推測する。
そんな義母と初めて対面した日の衝撃は今でも忘れられない。
その日まで、私は、いつも冷静沈着、育ちの良さが節々に滲み出てしまうチャリ氏の母だから、きっと控えめの上品な女性なんだろうと勝手な幻想を抱いていた。
しかし、10年前、待ち合わせの駅に現れた女性は、生脚に真っ白なショートパンツ、二の腕全開のタンクトップという装いで、その引き締まった褐色の肉体を惜しげもなく披露する快活明朗なアラフィフの美魔女だった。
そしてその隣には、彼女にもチャリ氏にも全く似ていない不機嫌なブロンドのティーンエイジャーがいた。
それが種違いの妹であることが紹介された時、私は初めてチャリ氏の複雑な家庭事情を垣間見ることとなったのだ。
筆者の家庭環境もなかなか壮絶ではあったのだが(今回はこのお話はスルーして)、私が初めて会った義母に強烈に感じた、日本の母親と決定的に違う印象は、「母」の中にも強く「女」が主張してくるところだった。現在の義母の彼氏は私がチャリ氏と付き合いだしてから2人目なのだが、チャリ氏にとっては何人目なのだろうか。ちなみに、義妹の高校卒業のパーティーには歴代父親代わりの男性が3人も参加した。
さながらマンマミーアの世界だ。
正直日本人の感覚からすると奔放な女性にも思えるが、ここでは誰も彼女のことを蔑んだり悪く言ったりする者いない。それどころか前のパートナーやその家族とも未だに良好な関係を続けている。一言でいうと価値観の違いなのだろうが、それ以上に彼女が数は多くとも、ちゃんとひとりひとりの男性と誠実なお付き合いをしてきた結果なのではなかろうか。彼女の人との繋がりをずっと大切にするまめな心遣いは尊敬に値する。一時でも家族でいたのならば、一途な彼女にとってはずっと家族の一員なのだ。
時に彼女は自分の意見や思想をばんばん人に押し付けくる。しかしながら人一倍情に厚く、人二倍世話焼きで常に人のためを思って行動してくれているので、決して誰もそんな彼女を憎めないのだ。
そう、彼女はいつも全力で「母」でもあり「女」でもあり続けるイタリアーナだ。
女性として人生を最大に楽しんでいるのは正直羨ましいところでもある。今日もこれからも、彼女は人々に愛を降り注ぐイタリアの太陽であり続けることだろう。
完