鈍行でいこう
お久しぶりです
新年早々、世の中的にも色々ありましたが、個人的にも色々あり、なかなかにカオスな1月を過ごしていました。
ここへきて、はじめてコロナ(たぶん)をもらってしまい、体力と気力をごっそり削られ、しばらく「虚無」状態を味わっていました。
まだ回復途中ではありますが、ようやく、何か書いてみよう、と思えたので、よっこらしょ、と重い腰をあげ、ポツポツと書いています。
とはいえ、今までどうやって書いてたんだっけ。
勘を取り戻す、というか、ゼロからの再スタート、という感じがします。
今はまだよくわからないのだけれど、この経験からもきっと、何か大切なことを教わっているのだろうなあ。
虚無の世界
本当にしんどい時には、人間があからさまになります。
だからこそ、逆にシンプルになれるというか、使えるエネルギーが限られている中で、自分が何を考え何を選択するのか、ということは、その状況に置かれてみないと知ることができないので、それを知ることができたのは良かったな、と思っています。
しんどい中にあっても、不思議と、自分を観察する視点だけはなくなりませんでした。
観察していて、なるほどなあ、と思ったことは、体力と気力がゼロになると、思考することができないので、感情に心動かされることもない、ということです。
何もないので、虚無の世界に、ポツンとひとり佇んでいることしかできない。
何か考えたいのに考えられない、何か感じたいのに感じられない。
圧倒的な静けさに、気が狂いそうになりました。
が、狂うにもエネルギーがいるようで、それすらできないので困りました。
仕方がないので、それをそのまま受けとめてみることにしました。
というか、それしかできることがなかったのです。
見渡す限り真っ白な世界の真ん中に、自分だけがいる。
何もないけど、自分だけはいる。
虚無、だけど、生きている。
こんな風に、ただ虚無を生きているだけで、何の意味があるんだろう、なんて考えが一瞬よぎるも、ああ、違うな、と気づく。
生かされている。
生かされているから、生きるのだ。
自分の意思で生きている、だなんて、勘違いも甚だしい。
自分の意思では、心臓ひとつ、動かせないのだから。
思考があるから、感情があるから、生きているつもりになっているだけで、実際は、生かされているから、生きているんだよなあ。
それが、虚無の世界で、ただひとつ、私が見つけたものでした。
命の役割
生かされているのだから、生きてみるか。
体力もない、気力もない、思考もない、感情もない、意欲もない、ないないづくしの病み上がり期間でしたが、夫に助けてもらいながら、食べられるものを食べ、できることをやっているうちに、少しずつ人間らしさが戻ってきました。
生かされていることに感謝しましょう、とはよく聞くフレーズですが、生かされている、ということを強烈に感じる体験をした今は、その言葉に、やや違和感を覚えます。
生かされている、と知ったからといって、そのことに、すぐさま感謝したくなるわけではないのだな、というのがリアルな感想です。
生かされていることは、当たり前のことではないし、有り難く、感謝すべきことなのでしょうが、特別すぎることでもないように思います。
生も死も、自然の一部、というか。
犬や鳥や虫や植物なんかを見ていると、生かされていることに、感謝しているようには見えません。
でも、生かされているから、それぞれに精一杯今を生きているし、生きることで、他の命を循環させている、ように見えます。
命の役割って、そういうことなのかもしれないなあ。
命の循環、という視点を持つと、死も、生と同じく、とてもパワフルなものだと感じます。
隣り合う命同士は、影響を与え合わざるを得ないからです。
死の影響力というのは、とてつもないものです。
実際、私は、祖父母の生よりも、死から教わったことの方が、自分に大きな影響を与えてくれたように感じているし、その身をもって死を実感させてくれたことに対して、ものすごく感謝しています。
命をいただく、というのは、食べるということだけでなく、隣り合う命から生きるエネルギーをいただく、ということでもあると思います。
生は喜ばしきことで、死は忌むべきもの、とされがちですが、命の循環、という視点に立てば、どちらもなくてはならないもので、そこに人間的な勝手な価値判断を下すのは、命に対して、なんだか失礼な気がするのです。
だから、生かされていることに感謝しましょう、と、生だけを尊きものとして崇め奉るのは、なんだか違うよなあ、と思うのです。
生と死は、隣り合わせ。
だから、いい。
人間には思考や感情があるので、それを受け入れることが難しい時もあるのだけれど、すべて自然の一部なのだ、と知ることで、ふっと肩の力が抜けたり、視界が開けたりすることも、あるような気がします。
人間の特質
すっからかんの虚無状態から脱することができたのは、夫の助けがあったからこそですが、生きねば、という本能に、勝手に動かされたような気もしています。
生かされているから、生きる。
色々なものがごっそり削ぎ落とされた今は、それだけでいいような気がしています。
隣り合う命をいただくことで、少しずつエネルギーが補充され、自家発電できるようになってきました。
それにつれ、思考することができるようになり、感情に心動かされることも増えました。
すると、ここでようやく、感謝の気持ちが芽生えました。
すっからかんだったからこそ、自分が何によって生かされているかということが、よくわかるのです。
すっからかんだったからこそ、思考や感情のほとんどは、取るに足らないものなんだなあ、と思うのだけれど、だからこそ愛しいんだよなあ、とも思うのです。
生かされているから生きるのだけれど、生かされていることに感謝することができるのは、人間ならではの特質なのだろうな、と思います。
生かされていることに感謝しましょう。
それは、教えとしては、きっと正しいです。
でも、言葉に自分をあてはめることと、自分を言葉にあてはめることは、違います。
なぜか心臓は動いている。
なぜか呼吸もできている。
五体満足で五感もある。
何かが自分を生かしてくれている。
でもそれだけでは生きている実感はなく。
自分と隣り合う命が生きる力をくれている。
それによって思考することができる。
感情に心動かされる。
生きている実感がわく。
心の中ですべてが繋がる。
感謝の気持ちが芽生える。
となった時、私は、自分以外の人に、生かされていることに感謝しましょう、とは言わないなあ。
思考ありき、では、本質はなかなか見えないものです。
こんなこと、書くつもりはなかったのですが、見切り発車で書いてみたら、こんな文章になりました。
こんなこと感じてたんだなあ。
こういうことがあるから、書くのはやっぱり面白いです。
まだまだ、エンジン全開、とはいきませんが、生きてるだけでオッケー、と思うので、鈍行でぼちぼちやっていこうと思います。
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