【映画】ケイコ 目を澄まして/三宅唱
タイトル:ケイコ 目を澄まして 2022年
監督:三宅唱
「やめる理由を聞くと、『コミュニケーションがうまくとれなくて、寂しい』と。」
聴覚に障害を持つプロボクサーという映画の原作となった小笠原恵子さんのインタビューの中で語られていた言葉を読んで、映画の中のケイコが抱えていたもののひとつが、くっきりと浮かび上がったような感覚を覚えてはっとした。映画の中のケイコが”寂しい”とこぼしたわけではない。けれど、側から見れば真の強い人と見られながらも、弱さや怖さの中でボクシングに挑み、孤独に打ち負けそうになる瞬間がある。試合に勝っても、リングの上で培うのは勝利の味よりも恐怖のリアルさの方が上回ってしまうのかもしれない。孤独というものに輪をかけて距離を生み出す、社会との距離感は健常者にとっては想像するしかない領域でもある。コンビニでの意思疎通の上手くいかなさや、道で人とぶつかってしまったりと日常の中でのちょっとした事でもすんなりと事が運ばない様子も描かれている。ぱっと見では分からない聴覚障害者の日常がまざまざと突きつけられる。
ジムの閉鎖など問題が起きて周りが騒いでも、それに気がつく事が出来なかったりと、耳から入るはずの情報を受け取る事が出来ないがために、ケイコは周囲の情報の流れに乗る事が出来ない。社会は大なり小なり、周りの人間との流れの中でコミュニケーションをとっている。聞こえるのが当たり前である環境から断絶された人々は、周囲を見る事でしかその空気を感じとる事が出来ないのかもしれない。
タイトルの「目を澄まして」はケイコが手話以外に取れるコミュニケーションを示している。それはボクシングの試合に限らず、ジムの人たちや、家族、ろう者の友人など視覚から受け取れる情報が彼女のコミュニケーションの手段の根幹を担っている。パンフレットを読んで気付かされたのは、手話でも口数が多い人もいれば少ない人もいる事。日常の中で、喋るのが得意な人もいれば不得手な人もいる。それは口で喋ろうが、手話だろうが関係なくその人のパーソナリティに寄るものであると。コミュニケーションというと、どうしても饒舌でなければいけないという先入観があるが、普通に考えればどの様な状態だろうと口下手な人も饒舌な人もいる。多くの言葉を連ねても伝え下手な人もいれば、少ない言葉で的確に伝える人もいる。対話のあり方の多様性は、ステレオタイプな切り口で捉えきれない。そんな事を改めて考える。
コミュニケーションは言葉に限らず、スパーリングをするだけでも他者と繋がりを持つ事が出来る。この映画が生々しい臨場感を生み出しているのは、身体が繰り出す躍動感がそれだけで言葉とは違う対話が浮かび上がってくる。言葉以上にプリミティブなパンチの繰り出す音は、ケイコの中に沸き起こる感情がストレートに伝わってくる。彼女には聞こえない音が、彼女のもう一つの言葉としてダイレクトに伝わり、耳を刺激する。
物語後半で日記が朗読されるシーンが挟まれるが、この映画は劇的な場面よりも日常を綴ったものである。試合のシーンなど劇的な場面は少なからずあるが、それよりも日常の生活の中で彼女の心の揺れ動きに軸が置かれている。手話を通じて彼女に寄り添う人たちもいれば、それを知らずに怪訝な態度を示す人もいる。「聲の形」や「コーダ」と異なるのは、十代のアイデンティティの確率への道程とは違う二十代後半の社会的立場のあり方だと思う。それは障害者としての自分を受け入れた先にある、社会とのコネクトへの諦めを含めた日常の繰り返しの中で、自分を見失わずにいられるかどうかという点である。だからこそ、エンドロールで荒川や北千住の街並みが流れ、日常のその先が示されている。彼女も我々も街の中の一粒であり、劇的ではない日常をひたすら繰り返しながらも、一日一日を暮らす。
ドラマを描きながらも、ドラマチックに陥らない日常のある場面の切り取り方にこの映画のリアルさが描かれているのだと思う。