【映画】ボーはおそれている Beau is afraid/アリ・アスター
タイトル:ボーはおそれている Beau is afraid
監督:アリ・アスター
電車や駅の広告に溢れる脱毛や美容、増毛が生み出す、そのトキシックな状況を生み出す広告への批判はあらゆる場面で度々表面化する。他者から見られる時のこうでありたいという欲望と、こうでなければいけないという強迫観念が表裏一体となって渦巻いている。本作の後半で主人公ボウの母親の業績がポスターとして壁に並べられているのを見て、トキシックな状況を思い浮かべた。
気付いた人も多いと思うが、オープニング前のクレジットでその母親の企業MWのロゴが登場する。冒頭のシーンでボウが部屋で眺める男性用シャンプーや、薬など要所要所でそのロゴが出てくるが、実家の壁には変遷を応用に年代ごとに商品のポスターが登場する。物語を要約すると子離れできない母親と、その重圧から逃れられない息子の話である。そしてボウの周辺をみると、母親の企業が生み出した製品に囲まれているのが分かってくる。ボウは母親との関係からあらゆる不安を抱えていて、常に恐れを抱く。母親の企業が生み出す商品は、ボウの不安と恐れを取り囲むように作られる。母親がボウに対して強迫観念を植え付けたものを商品化しているのか(パンフレットの考察ではこちらの面で書かれている)、逆にボウの不安を取り除こうと商品化したのかは定かではないが、それらの商品はビジネスとして成功してしまっている。ボウの薄くなった頭髪とシャンプーの関係はまさにそういう事だろう。それ以外にも花粉症の薬、セキュリティ、アパートなど一貫性のない品揃えは、ボウの不安に寄り添っている。
これらの商品広告をみていると、母親に対して期待に応えたいというボウと、こうあるべきという姿勢を貫く母親の姿勢が対立している。どう見ても毒っけのある母親の傲慢さが目につくが、裁かれるのはその手のひらで踊らされているボウであるという救いのなさ。成功し一財を成している母に比べれば、無職の息子の何者でもない立ち位置は余りにも弱い。
それにしても、劇中の出来事が夢なのか、幻覚なのかの境目が希薄で、特にボウの暮らす街のスラム加減は笑ってしまうほど酷い。好き勝手に倫理観のかけらもない人々の様子に、どこかヒエニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルのごちゃっとした不条理さを想起したが、やはりこのシーンはボスを参照していたとの事。
映画全体では「トゥルーマン・ショー」っぽいスペクタクルを感じさせるが、それ以上にアリ・アスターの過去作との共通点の方が目につく。親子問題は勿論のこと、屋根裏部屋は「ヘレディタリー」、高所から岩場へと落ちるシーンや天地がひっくり返ったカメラワークは「ミッドサマー」など既に描かれている描写の再演でもある。そもそも、本作は当初初長編作として用意されていたということなので、むしろこちらの内容が先の2作品に回されたという方が正確なのかもしれない。
しかし、詰まる所この映画が期待ほど楽しめたかというと、ちょっとしっくりこない部分の方が多かった。全体的に冗長な感は否めず、その割に説明的なセリフやホアキン・フェニックスの顔芸に頼りすぎな印象が残る。グダグダと管を巻く演技はホアキンの十八番ではあるし、役の緊張感が最後まで途切れないのは凄いのだけど…。中盤で登場するコシーニャ&レオンのアニメーションも、整理され過ぎていて、「オオカミの家」の様なドロドロとしたアクの強さは無い。むしろ唐突に現れる陰茎の怪物の方がインパクトがある(なんともバカバカしいが笑)。
個人的に「ヘレディタリー」のオカルトに馴染めず、「ミッドサマー」の徹底したフォークロアのおどろおどろしさは楽しめたものの好きかと問われるとそこまででもなかった。だからこそ、本作ではもっと突き抜けたものを期待していただけに、どうにも中途半端で、特にラスト部分では興醒めしてしまった。いや、全編通して凄い描写の数々と、コミカルな部分…特に風呂場での出来事や、腹上死(オリエント工業の人形みたいだった)など笑える所は多い。不条理を描きながら、なんか変に説明的で理屈っぽいというか、もっと理解出来ないくらい突き放してくれたらよかったのに。