【映画】ディア・ピョンヤン | 愛しきソナ | スープとイデオロギー/ヤン・ヨンヒ
タイトル:ディア・ピョンヤン 2005年
監督:ヤン・ヨンヒ
タイトル:愛しきソナ 2009年
監督:ヤン・ヨンヒ
タイトル:スープとイデオロギー
監督:ヤン・ヨンヒ
人種や国籍、住んでいる場所と祖国とは一体何なんだろう?関西弁の会話だけを聞けば大阪に住む関西人だし、日本で暮らす日常は在日の人だろうと日本人と暮らしぶりはそう変わりはない。食文化の違いといっても、昨今は韓国料理も日常で簡単に触れる事が出来る。家でキムチを漬けるかどうかはあれど、普通にキムチのパックを買って食べることなんていうのは昔から普通にある。
僕自身も近所にも友人にも在日朝鮮系の人との関わりは昔からあって、近所の焼肉店の店主家族は生まれる前からの付き合いで、街で会えばアボジ、オモニと親しみをこめて声をかける。ひとりだけ在日朝鮮系の女の子と短い期間だったけど付き合った事もある(僕の身勝手な振る舞いで振り回してしまったが、あくまでも男女の関係での事だ)。大阪にいる友人がある日、実は在日朝鮮系で…と出自を話してくれた時も別に驚きはなかった。ひとりの人間として付き合う上で日本人だろうが、在日だろうが何か障害が生まれるわけではないし、単純にお互いを思いやれる関係であればそれ以上でも以下でもない。ただ彼ら彼女らとの会話の中で、それが障害として何かがあった過去だけはなんとなく感じられた。無理にその部分を押し広げるつもりもなかったので、大抵はその不穏な空気を感じとるだけで終わる。
三作を続けて鑑賞し、まず感じるのはコリアンタウンに暮らす人々の日常と、平壌の人々の暮らしぶりはインフラの差はあっても普通の市井の人々の生活である事。北朝鮮というクローズドな国の情報は金正日、今正恩らの同行と、国境沿いの川向こうからの映像や、脱北者など断片的なものでしかない。平壌で暮らす人々の生活を知る機会は殆どない。鶴橋のコリアンタウンについても、元々大阪の土地勘がないのもあるけど、ヘイトやレイシズムが横行している現場をニュースで漠然と知るくらい。日本国内でも南北の軋轢が存在しているという事も本作に触れなければ知る機会は中々無い。
楽園とうたわれて北朝鮮に渡る人々がいた事は何かのドキュメンタリーで知っていたが、本作と2023年に放送された「オモニの島 わたしの故郷 〜映画監督・ヤンヨンヒ〜」で実情の一端を垣間見る事が出来る。兄三人が北朝鮮へと渡る理由について作品を追うごとに明らかになってくるが、はっきりとその内容が明らかになるのがNHKのドキュメンタリーで、「ディアピョンヤン」では日本では就職などが困難という理由から兄三人が北朝鮮へと渡ったと語られていたが、「スープとイデオロギー」とNHKの番組で次男と三男が北朝鮮へと向かい、その後長兄が強制的に北朝鮮へと招集されたと明らかになる。長兄を語る時のクラシック音楽とコーヒーを愛する文化的な人柄と、西欧文化をシャットアウトする北朝鮮国内の情勢との軋轢が事細かにされた時、長兄の死へと至る過程がはっきりと示される。個人主義と全体主義への葛藤は日本で暮らすヤン・ヨンヒ監督自身も苛まれていたと語っているが、長兄は全体主義の中で自由が封殺されていく息苦しさと、望むべく北朝鮮へと渡ったわけではない現実が重くのしかかってくる。作品ごとに事実が明らかになってくるのは、向き合いきれない現実に対して少しずつその現実を良くも悪くも受け入れていく過程なのだろうと感じた。その過程こそがこの三作のドキュメンタリーの根幹にある監督が抱える葛藤なのではないだろうか。そう考えると長兄の息子がクラシックピアニストとして技を磨く様に親子の想いがフラッシュバックしてくる。
そして姪ソナとの関係も北朝鮮と日本という暮らす場所の差が照らし出される。日本にいればごく自然に触れる事が出来る文化的なものも、検閲がある北朝鮮では外の出来事を知る由もない。カメラを止めてテロップだけで綴られる会話は、好奇心旺盛な十代の女の子の心情としては、立ちはだかる壁の大きさを突きつけられる。同時にボーリングを楽しむ幼き日のソナの姿など、外行きの格好かもしれないが、西欧を否定している国なのにそういったレジャー施設があるのかと驚きもあった。ゴロゴロと玉を転がすソナの姿は愛おしい。大学で英文科に進むソナは、監督との関わり合いからの選択だと思うが、こと北朝鮮という国を思うと権力者のための学業とも受け取れる。そう考えると複雑な気持ちにならざるを得ない。個人では嬉しくも、全体主義な社会では意味合いは変わってくる。そんな不条理さを痛感させる。
そして「スープとイデオロギー」では在日の権利を勝ち取るために朝鮮総連の活動をしていたアボジに対して、それまで陽気な関西のおばちゃんなイメージだったオモニの過去が明らかにされ、壮絶な出来事が明るみになる。この三作が凄いのは、三十年近く撮り溜めた映像が繰り返し登場しつつも前後が付け加えられ、異なる側面から現在へとつながっていく所である。多くは日常の些細な会話なのに、家族の物語へと連なってくる。表札の一件や恋人についての会話など、当初は何気なく撮影しただろう出来事が家族のドラマの本流へとなだれ込む。
そしてチェジュ島4・3事件というオモニが抱えながら、ひた隠しにしていた出来事が語られる時、それまでとは違った家族の物語が明らかになってくる。チェジュ島というと、ホン・サンスの映画に観光地として出てきたなくらいの認識だったが、その観光地の裏に戦後の朝鮮半島の闇があったという事と、朝鮮半島と大阪の関係を知る事になる(地理的に近く福岡ではなく、大阪というのは生活の上での商圏だったりコリアンタウンのように場があったからだったのだろうか?)。
オモニが何故頑なに韓国を否定して、在日に支援していた北朝鮮を支持していたのかという事が明らかになる事で、監督自身の出自への視点の変化が三作の中でもハイライトだった。冷戦で分断された朝鮮半島の別の側面に触れる時、想像を絶する出来事がそこにあっただろうし、死体が横たわる中、兄弟を守るという意志の中、命からがらたどり着いた大阪の町でのアボジとオモニの信念がパズルのピースのごとく埋まっていく。「スープとイデオロギー」を見終わった時、ピースが埋まる感覚があったが、NHKのドキュメンタリーでも監督が同じくパズルのピースが埋まったと語っていて同じ感慨を受けていたのが印象的だった。
1910年代から終戦までの朝鮮半島の日本の統治下によるコロニアリズムは「パチンコ」でも描かれていたが(関東大震災の状況も含め)、マクロな視点も重要だけれど、日常生活というミクロな視点で市井の人々の暮らしを描いたこの三作は、日本が隠蔽しがちな歴史の一側面を明るく照らしている。民主化を勝ち得た韓国と、未だに閉鎖的な独裁国家を貫く北朝鮮の現状の最中で、対立とは別の世界を描いた本作は本当に日本にとっても朝鮮半島の人々にとっても、世界にとっても重要な作品だと思う。
家族の姿に右往左往しながらと、アナーキストと自認する監督のアティチュードは、心を突き動かされる。日本の選挙とアメリカの大統領選挙がわだかまりの残る結果となった今このタイミングで、一番重要なのはアナーキズムと個人主義の在り方が自分らしく生きる道なのかなと思わせる作品だった。権力に依拠しない生き方を照らす道標になりうるマイルストーンとして、触れるべき作品だとつくづく感じた。