【映画】ひとつのうた/杉田協士
タイトル:ひとつのうた 2011年
監督:杉田協士
ガシャンと音を立てて開くポラロイド690。主人公は常にポラロイドカメラを携えて、駅にいる人々や街の人々をフィルムに収めていく。知らない人たちを側から撮影する姿に「大丈夫なのか?」といらぬ心配が横切ってハラハラさせられるが、何事もなく物語は進んでいく。あたかもそれが当然な出来事のように。
映画の途中で、本作がスクエアに近い画角になっている事と、ポラロイドの画角が重なり合うのに気付いた時、主人公が見ている世界そのものが写真と重なりあい映画の距離感が縮まっていく感覚があった。
以前杉田監督のトークショーを観覧した時に話していたのが、登場するキャラクターと同じ世界を見たいという言葉が印象に残った。それは「春原さんのうた」のバイク二人乗りの姿を後ろから追いかけたシーンについての事だったのだけれど、本作「ひとつの歌」でのポラロイドのレンズの先にある世界とも言える(「ひとつの歌」でもバイクのシーンが登場する)。
ホームページには、劇中では映らない主人公が撮影したポラロイドフィルムが並んでいて、あの時のあの瞬間のカメラの先にある世界が綴られていた。彼が見た世界を覗き込む事ができる。
「春原さんのうた」にしても「彼方のうた」にしても、死が真横に横たわっているにも関わらず、死というものの存在がぽっかりと空いた状態の様に感じられる。その状態は不思議と悲しみの後の喪失感のみが画面から立ち込めていて、失われたことの虚ろいのみが苦味として残る。
「彼方のうた」上映時から「ひとつの歌」の出来事と繋がっているのでは?という問いが対談などで持ち上がっていた。たしかに音や言葉からのみ描かれる電車の事故や、喪失から次のフェイズへと立ち直る人たちの様子も含め繋がりは伺える。というよりも、杉田作品の根底にはこの様なアトモスフィアが通底していて、語られる言葉やセリフ、行動では現れない部分の含みを想像する楽しみが毎回用意されている。監督曰く全く説明していないわけではないし、想像を喚起させる余白は言われるほど想定していないという事だった。観客が受け取る印象が、監督の意図した所とは別のものであると過去のインタビューからもはっきり示されているが、観客としては手がかりが掴みづらい部分でもある。しかしそのズレは、不快さよりも違和感の心地よさの方が上回る事の方が多い。
東村山から吉祥寺、そこから学芸大学という東京に暮らす人間からすると意外とそれぞれが繋がりの薄い場所が登場するのも面白い。「春原さんのうた」でも描かれた小竹向原から聖蹟桜ヶ丘という距離感も、通常であればその距離感と場所の移動は中々あり得ない。その間には新宿や渋谷があり、物語のダイナミクスを鑑みればそういった大都市に帰結した方が描きやすいような気もする。
劇中で登場する場所が東京の中心部分から少し外れたところである所が、却って物語のリアリティをうむ諸縁でもあると感じさせる。実生活で考えればその移動はあり得ないんじゃない?なんて思いながらも、映画のなかでの流れはとても自然なのがなんとも得難い雰囲気を醸し出している。
場所的な距離感と登場人物の関係がどこかふわふわと浮いた感じというのも、物語の掴みどころのなさにも通じる感じもあって、魅力に繋がっていく。「ひとつの歌」も「彼方のうた」も主人公が生と死の狭間にいる事で、生きる人々を見つめる天使のような存在にも思える。そう考えるとヴィム・ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」にも近い映画なのかもしれない。
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