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【映画】悪は存在しない/濱口竜介


タイトル:悪は存在しない 2024年
監督:濱口竜介

タイトルや音楽のぶつ切りなど端々に感じられるゴダールオマージュ。子供の視線はビクトル・エリセを想起させる。濱口竜介作品はハッピーアワー以降しかみていないが、これまでの作品とは違いヨーロッパの映画を観ているようなテンポ感や空気が流れる。元々石橋英子からのライブで使用するサイレント映画という依頼でスタートした事もあって、音楽の比重は高いが取ってつけた様な部分は皆無で映画の世界と強い繋がりを持つ。意外と企画色が強くなると、音と映像が混ざり合いきれない事も多々あるが、良い意味で違和感と調和を感じさせる。濱口監督得意の会話劇と、セリフの無いシーンの間に漂う感情をシームレスに繋ぐ役割として担っていたのが音楽だったと感じた。得てして大概こういう映像にはアンビエントなふわふわとした音像が使われがちだが、不協和音が不安を掻き立てるアンサンブルは常に緊張感を保つ。ただジム・オルークの存在感はどうしても感じてしまって、彼抜きの彼女のこういった作品も聴いてみたい気もする。
いつも以上にセリフの無い映画だけに、前半は少し淡白な印象があった。これ以前の作品は詰め込み気味な会話劇の濃厚さがあり、物語が構築される狭間にマジカルな場面が浮き上がってくるのが毎度の楽しみでもあった。本作では映像…というよりも長野の自然がある意味主人公でもあり、上から下へと流れる川やそこに暮らす鹿の存在に寄り添う村の人々という構造から物語が紡がれる。「寝ても覚めても」での堤防や、「ドライブ・マイ・カー」や「偶然と想像」での車内など、人工物の中での空間が生み出す独特な雰囲気とは違う空気が流れていた。花と鹿の対峙や、霧がかったグランピング建設予定地での開けた場所など、エリセやタルコフスキーみたいな描写が日本でありながらヨーロッパっぽさを感じさせた要因でもあると思う。それにしてもグランピング建設予定地と、花と鹿の対峙するシーンが重なった瞬間の映画としての高揚感は言葉にし難い。それまで単調に思えた薪割りや、村での暮らしが、資本による破壊や介入を感じた時、そこで暮らす人々の生活は肉体を通して保っている事を強く感じさせる。都会の生活と対比する事で、電話やズームだけでやり取りする生活と、フィジカルな生活、それぞれが含む合理性という形の違いがまざまざと示される。土地は全てと繋がっているからこそその先にいる人たちの生活を崩さないという合理性と、書類や審査といった都会的な合理性との違いに気付かされる。しかし一方でそんな村の人々も戦後に入植し、自然を壊しながら生活してきた現実も顕にしていく。鹿や自然から見れば人間は全て脅威である。だからこそ永続的な関係が築けるかが重要になる。
ラストについては不明瞭な部分が多く、解釈は人それぞれだろう。自然の脅威を代弁したとも取れるし、争いは人と人の間でしか起きない事の裏返しのようにも思える。単純に感動で終わらせるような映画でないし、音楽と同等に不協和音を残す不条理さは心地よい違和感を残す。

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