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【映画】アシスタント The Assistant/キティ・グリーン
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タイトル:アシスタント The Assistant 2019年
監督:キティ・グリーン
映画制作会社でアシスタントとして勤務する女性の1日を描いたミニマルな作品。描く所と描かない所の切り分け方と、1日を通して主人公ジェーンの視点を余す事なく伝える表現は、派手さを抑えつつじっくりと彼女の周りにあるものの輪郭を浮かび上がらせる。
ハーヴェイ・ワインスタイン問題に切り込んだ作品ではあるものの、会長という名のワインスタインを思わせるキャラクターは声とメールのみで、姿は一切登場させない。ジェーンの職場は会長室に面しているのに彼の出入りも描かくことなく、存在の大きさだけは感じさせる。ジェーンは人気の無い会長室を掃除したり、会長の食事を運んだりと世話する場面が幾度か描かれるが、会長が部屋から出た後と部屋に戻る事を示唆しているのに、一切出てこないのは異様な雰囲気がある。
姿が見えない人物が生み出す強権的な恐怖が主人公に限らず、周囲の社員にも波及しているのにみんなスルーするスキルを身につけている。処世術といえばそれまでなのだけど、加害と被害に目をつぶる事も自然と結びついてしまっている現実もそこに存在する。
映画の一番要となる人事部との会話も、会社絡みで性犯罪に加担しているのがよく分かり、会社が抱える問題と異質さが露呈する。何よりも恐ろしいのは、起きている現実に対して当然の事の様に受け入れてしまう人々がいる事と、それをゴシップとして楽しむ人間がいる事だと思う。俳優を目指す女性や、片田舎から上京する女性を会社の部屋やホテルで性的な行為を段取りしているのが、周囲の人間でもある事。それらが一方的な性的な強要とみなされるか、拒まなければ枕営業とみなされるかは、可視化されないブラックボックスとなっているプライベートな空間で行われている事で、フェミニズムとミソジニーの視点では180度変わってくる。事の重大さに気付き問題を提起したジェーンと、会社での立場を保身する社員との軋轢がまざまざと描かれていて、二次的なハラスメントを生み出している。何重にも重なるヒエラルキーと、ひとりが声を上げてもどうにもならない社会の歪みが、この短いシーンに詰め込まれている。
これらの描写を見ていて脳裏に浮かぶのは、やはりジャニー喜多川の問題だった。ワインスタイン以上に悪質かつ、長期間に及ぶ性加害の現状を鑑みるとここで起きている事よりもさらに悪質で重大な事が起きていたのが、被害者の言葉からも推測出来る。分かっていながら性処理を行う場所をお膳立てしたり、反発を押しつぶすような姿勢はまさに今日本で抱えている問題と大差ない。というよりも、より深刻な問題がそこにある。日本社会の歪みは、幼児性愛を絶対悪として認識していない大人が多いと日々感じている。「アシスタント」では成人していれば、それは容認しているものという暴力的な表現もあった。それはそれで権力をかざしての、一方的なセックスの強要であるが、それですら社会の大きな問題としてワインスタインは制裁を受けている。ジャニー喜多川の問題は、さらに小児性愛である事と半世紀以上の長きに渡って行われた悪事である事が問題であると、社会が裁けない社会システムの歪みが露呈している。
この映画を通して我々が考えなければいけないのは、権力者の都合で踏みにじられる弱者の立場を守る事であって、加害者を擁護する事ではない。資本関係が優先されて、被害者を無きものとして泣き寝入りさせる状況こそ悪手である事なのだと。先日某ミュージシャンが縁や恩を傘に加害者を擁護するコメントがあったが、そこには過去に被害に遭い未来を踏みにじられ心に傷を負った人がいるという想像が欠落していて、怒りを覚えた。彼の行動は結局のところ、声を上げた人々の傷に塩を塗りたくる行為であって、被害者の立場には一切触れずにいた。反論するなら自分の音楽を聴かなければいいという身勝手な言動は、到底受け入れられない。人権に則って人道的な立場を貫くのか、利権や保身のために非人道的立場を貫くのかでその人への評価は自ずと分かれてくる。
これは他人事ではなく、いつ何時でも身近に降って湧いてくる問題でもある。会社の中でのハラスメントに留まらず、性犯罪が横行する行いに気づき、それを食い止める社会のあり方が人道的であり、かつひとりひとりの人権を守ることなのではと強く願う。
話が大きく逸れてしまったが、この作品にある問題の本質は現代社会が抱える個人の利権絡みの問題でもある。一部の人間による利権に苛まれ、声を出す事も行動する事もしづらい。声を上げる時にマイノリティであるのか、マジョリティであるのかが、本質とズレた答えとならない社会の在り方に進んでいく事を痛切に願う。