【映画】ノー・ホーム・ムービー No Home Movie/シャンタル・アケルマン
タイトル:ノー・ホーム・ムービー No Home Movie 2015年
監督:シャンタル・アケルマン
荒涼とした砂漠を背景に殴りつける様に風に打ち付けられる樹木。遠くで平然と車が走る。
アケルマンらしい固定カメラによる長回しは、何かが起こる訳でもなくただひたすらに同じ景色を映しとる。劇中何度かこれらの風景があらゆる視点で映し出される。時に車の車窓から平地から山へと至り、時にフィックスで遠くの山や丘を撮る。場所も時間の経過も綴られる訳でもなく、9月には家に戻るという母と娘の会話があるだけ。ブリュッセルの母の家と、ニューヨークとオクラホマのホテル、そして延々と一面に広がる砂漠。
どこにいてもスカイプがあれば、遠く何千キロと離れていてもいつでも部屋通しを繋げる事は出来る。しかしコロナ禍を経験した我々には、オンライン上の繋がりは、実際にその場で顔を突き合わせるのとは違う感覚があるのを知っているはず。アケルマンに対して母親が、全然話しかけてくれないとこぼすが、母親の姿を捉えたカメラのファインダーを通してのコミュニケーションもやはりどこか距離を感じる。妹のシルヴィアンが母の体に触れながら話しかける様子を見て、ただ話かけるのと、体に触れてより親密に話しかけるのとは異なるのと同じ距離感があるのを感じた。
それにしても不思議なドキュメンタリー作品である。アケルマンの遺作となった本作は、母ナタリアとの会話と日常をそのまま切り取っている。ブリュッセルの家から見える庭の視点や、真反対の位置にある車や路面電車が走る通りの喧騒のギャップ、暗い部屋の窓から差す太陽のひかり。それはあたかも子供の頃に、ひとり部屋でぼうっと眺めているような感覚を呼び覚ます。何もする事がなく、ただ無為に時間の流れに身を任せるだけの瞬間の様な、部屋に漂うものを何となしに見つめるだけの時間を思い出す。過去と現在が交差し、これから起きるであろう母の死の予感が、空っぽの部屋に投影される。
アケルマンの作品を一通り観た上でこの作品に触れると、全てがつながっているのを強く感じる。「一晩中」にあった物語の断片の数々の中にある部屋、「街をぶっ飛ばせ」でのキッチン、「ジャンヌ・ディエルマン」での母の日常、「家からの手紙」での横スクロールの描写、「私、あなた、彼、彼女」でのセクシャリズム。アケルマン作品のテーマの根幹にあるユダヤとアウシュヴィッツについて、母との会話ではっきりと示されている。「ゴールデン・エイティーズ」のラストで残酷なまでに示される腕の番号が記された刺青、「アンナの出会い」での西ドイツからベルギーへ至る戦後のナチスから逃れるユダヤ人の足跡が、実際に母の身に起きた現実だった事が母の口から語られる。実際はより残酷で、アケルマンの母はナチスの台頭を予見して、ポーランドからベルギーへと亡命したものの、SSに捕まりポーランドへと戻され、アウシュヴィッツへと送られる。アケルマンのユダヤ人としての出自や、イエロースターを拒んだ父の話など、断片的ではあるものの今へと至る足跡が親子の会話から綴られる。
そして「アンナの出会い」そのままの、アケルマンの根無草な移動する日々も、アンナ役のオーロール・クレマンの姿と重なってくる。親子のホーム・ムービーにノーを付け足すのは、そういったアケルマンの虚無感とあるがままの姿が、如実に現れる。離れた場所の距離は、心の距離を埋める事は出来ない。ブリュッセルの家と一番離れた砂漠の風景は、極端に離れた場所と家をオンラインで繋ぎながらも、決定的な距離を生む。それはブリュッセルの家で対峙しても、カメラという壁が同じ様に距離を生み出す。
砂漠のシーンはイスラエルの地方で撮影されたものらしい。戦後にユダヤ人にとっての新たな楽園の場所として用意されたイスラエルではあるが、アケルマン一家がベルギーではなく、もしイスラエルに居を構えていたらこの様な作品は生まれなかったかもしれない。ユダヤ人として近い場所でありながら、一番遠くの場所としてイスラエルという土地が選ばれたのかもしれない。
あっけらかんと初期衝動のまま描かれた「街をぶっ飛ばせ」(関係は無いが、どうしてもイスラエルとパレスチナの関係を考えるとまた違った見方も出来てしまう)から、半世紀弱を経て母の死の直前に至る彼女の作家としての業を色々考えさせられる作品だったとつくづく感じさせる。
ジョナス・メカスの日記映画は時間と場所を指し示しているいるが、アケルマンははっきりとは提示しない。本作はアケルマンによる母との日記映画の様な作品ではあるが、日常を詩的に綴るメカスに対して、会話や映像からリアルな様を親密にあるがまま捉えている。その違いを見ると、アケルマンの作家としての本質が浮かび上がってくる気がする。