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【遺書5】行動できない奴

自分には行動力がないとずっと思ってきた。

何かやってみようかなと思っても結局動かない。

やったほうがいいんだろうな、と思っても結局行動しない。

これは自分の将来に役に立つかもしれないと思っても、結局実践しない。

人の目があるときは別だ。

学校や会社や友達の前では。

意欲のあるフリ。

向上心のあるフリ。

趣味のあるフリ。

熱心なフリ。

フリをずっと続けてきた。

だが、本来の自分は違う。

家に帰ってからの自分は違う。

一人になってからの自分は違う。

誰にも見られていないときの自分は違う。

行動しない。

本当の自分には何かをやってみたいなんて欲求はない。

全て義務感から生じているのだ。

やったほうがいいんだろうな。

やらないといけないんだろうな。

でも、本当はやりたくない。

だから、人の目がなくなったとたん、やらなくなる。

ずっと自分には行動力がないと思ってきた。

行動しなければいけないと思ってきた。

行動力を身に着けなければと思ってきた。

そのために、自己啓発本を読み漁っていた時期もあった。

成功者の熱い話をたくさん聞いてきた。

でも、結局は行動できなかった。

そして、気づいた。

あぁそうだ、自分はそもそも行動したくないんだ。

行動力があるとかないとかの前に、本心では行動なんかしたくないと思っている。

だから、行動力を身に着けようなんてことは辞めた。

本を読んだり、人の話を聞くのもやめた。

だって、自分は行動しないと決めているのだから。

自分には無理だと、あきらめたわけじゃない。

どうせ自分なんて、と自己否定に酔っているわけでもない。

行動なんてしたくない、それが本心であることに気づいただけだ。

だから、余計なインプットは辞めた。

ところで、そもそも「行動する」とはどういうことかを考えだした。

たしかに自分は行動なんてしたくないと思っている。

その、行動とは何なのか。

自分はご飯も食べるし、トイレにもいくし、コンビニに買い物をしに行くし、タバコも吸うし、ネットサーフィンもするし、Youtubeも見るし。

それらは行動ではないのか。

いや、行動のはずだ。

手も足も目も頭も口も体全てを動かす。

毎日毎日行動してきたのだ。

じゃあなんで、自分には行動力がないと思い続けてきたのだろうか。

行動なんてしたくないと思うのだろうか。

自分の中での「行動」というものの定義を確認する必要が出てきた。

自分はきっと、行動というものについて生産的であることを条件としていたようだ。

そのほかにも、人に自慢できるとか、将来につながるとか、自己成長につながるとか、いろいろと表現はできるし、細かい違いはあると思う。

一言で言うならば、「生産性のある何か」をすることを行動だと認識していたのだと思う。

また、よく「自分は考えてばかりで行動できない」とか、

「悩んでばかりで行動できない」と感じてきた。

これは自分に限らずよく言われることだと思う。

悩む前に行動。

考える前に行動。

だから、考えること、悩むことを便宜上「思考」とするが、

思考と行動は対義語のように感じていた。

自分は思考はできる、むしろ得意、それどころかそればっかり。

一方で行動力がない。

そんな風に感じていた。

ただ、よく考えてみると考えたり、悩んだりすることだって脳みそをフル稼働させている。

それって、行動の一種じゃないのか、と思うようになった。

あぁ自分は思考ばかりで行動できないんじゃない。

「思考」という行動をずっとしているのだと気づいた。

勝手に「行動」というもののハードルを上げていた。

生産的で、人に自慢ができて、自分の将来に役立つことで、自己成長につながる何かをすることだけが行動だと思い込んでいた。

勝手に「思考」と「行動」は相反するものだと思い込んできた。

考えたり、悩んだりしている間というのは何も行動していないと思い込んできた。

こんなことに気づいても行動力が上がるわけじゃない。
生産的で、人に自慢できて、自分の将来に役立つことで、自己成長につながる何かを始める気になるわけじゃない。

何かに挑戦する気力がわいてくるわけじゃない。

ただ、少し、自分が何かを考えたり、何かに悩んだりしている時間に誇りを持てるようになったのかもしれない。

もうとっくに自分のやりたい行動はしていたのかもしれない。

考えるのが好き。

悩むのが好き。

思考に生きる人。

思考家。

悩み家。

内省家。

まぁそんな奴がいてもいいんじゃないか。

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