アイデア勝負の大喜利現代アートの問題
【遠近法を超えて】
ルネサンス以降の芸術は、旧来の芸術の殻を破ることに熱心だったわけです。宗教的なモチーフや、写真成立以前の肖像画が絵画の中心だった時代から、市井の人々や風景を描く絵画へ。例えば遠近法は、ルネサンス初期〜中期にその理論の多くが構築されたのですが、後期には既に脱遠近法の流れが生まれていたとか。
ちょうどこの時期に、現在のピンホールカメラに近いカメラオブスキュラが生まれた訳ですが、ある画家は写真こそ絵画の理想形と、当初は言っていたんだとか。でも、ちょっと考えれば解るんですが、写真が絵画の理想なら、写真でいいって話になりますよね。肖像画は肖像写真に勝てない事になります。
そうではなくて、写真では表現できない、絵画ならでは表現が求められたのが近代の画家。そんなヨーロッパの画家たちが、日本から輸出された陶器の、緩衝材として詰められてた紙屑を広げてみてビックリ驚いた。同じ円錐形の山をモチーフにして描いてるのに、あるときは急峻で人を寄せ付けない威厳を、あるときは春風駘蕩としたなだらかな稜線を、あるときは鰯雲のかかる空と調和した赤い山肌で堂々と存在感を示す山。
【印象派の誕生】
実物を写真のように描く写実ではなく、心に浮かんだ印象を、この画家は描いている……と欧州の画家たちは驚いたわけです。そして、気づいた。これこそ写真ではできない、絵画ならではの表現だ……と。こうして印象派が生まれ、旧来の写実的であることが価値だった絵画の常識は崩され、抽象画など新たな絵画の表現の可能性が追求されたのですね。
ところが、技巧否定が行き過ぎると、アイデア一発の大喜利的なアートが幅を利かすことになってしまいます。ナンダカヨクワカラナイこと自体が価値を持ち、ありがたがられる本末転倒。なんのことはない、西行の「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」への回帰。
もちろん西行は、伊勢神宮の持つ言語化できない荘厳さや存在感を感じ取り、感動してるわけですが。「西行が褒めてるから伊勢神宮は凄い」と言い出したら、それがただの権威主義でう。よくわからないことが価値になったら、それも本末転倒。日本人は幽玄とか色即是空空即是色とか、意味も解らず有り難がりますが。
【権威主義的な現代アート】
自分にとって、表現の不自由展の面々が不快なのは、この権威主義の香りがするからだと思います。もちろん、権威主義者も貫けばひとつの生き方ですが、彼らは反体制・反権威を気取ってるくせに、権威主義者だから滑稽に見えます。津田大介芸術監督は共同代表だ特任教授だと、ゴテゴテと肩書きを加え、遂には芸術監督なんて肩書きもゲットしました。
でも、彼に何の芸術的実績があります? そもそも本業も、違法ダウンロードの手口開陳本という、時流を読む目端が利いて、情報収集のノウハウがあれば出せる内容です。そう、アイデア一発の大喜利的な現代アートと、津田大介芸術監督の初期の仕事って、似た構造なんですね。
これは、元NHKプロデューサーや週刊金曜日のフリー編集者に、何の芸術的実績や蓄積があって実行委員会に名を連ねているのか…という疑問とも重なります。もちろん、現代アートにマジメに取り込んでいる人が大多数なんでしょうけれど、こういう二流のインテリ=二流のゼネラリストが、現代アートの世界に食い込んで、悪目立ちする状況自体が不幸。
小人閑居して不善を為す。
今回のバカ騒ぎを俯瞰して思いうかんだ、古典の言葉です。
どっとはらい