消えた風評加害者たち
◉東京電力が、福島第一原発事故の処理済み水を放出するようになってから、早3ヶ月です。当初は、韓国の野党である共に民主党とタッグを組んで、汚染水を連呼していた社民党の福島瑞穂党首や大椿裕子副党首でしたが。今ではすっかり、あきたこまちR叩きにシフトしているようです。こうやってその時々の旬の話題に乗っかるだけで、その叩いてる根拠も、ただの受け売り情報が根拠ですからね。なぜ日本の左派の思考が薄っぺらいのか、思想史から遡って書いてみますかね。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、福島県にある吾妻山・一切経山からの日の出前の景色だそうです。
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■移り気な左派活動家■
汚染水を連呼して騒ぐ、政治家や活動家がいなくなっただけで。その人たちは、次から次へと騒ぐ対象を変えているだけで、存在それ自体は相変わらずなんですよね。ちょっと前は、インボイス制度で騒いでいて。その前はマイナンバー保険証で騒いでいて。今はジャニーズ問題や宝塚問題で騒ぎ、あきたこまちRで騒いでいるだけです。まだ発売もされていないのに、市販のお弁当で食べたとか言うデマを言う人間まで出て。
わっと騒いで、ブームがすぎれば忘れる、活動家仕草。その騒いでいる論拠は、トンデモ説だったり、タブロイド紙や週刊誌などがソース。何のことはない、望月衣塑子東京新聞記者のやっていることと、大差ないですね。けっきょく、自分で何かを積み上げて、ついには余人には到達できない高みに至るようなこともなく。お手軽な情報で、パッとを目指すことを優先して積み重ねがないのです。
これ、和製サブカルがオタクを憎む構造と、非常によく似ているんですよね。もっと言えば、自分自身の解脱が目標である上座部仏教と、大衆を救うことを重視する大乗仏教との、本的な対立にも似ています。お釈迦様が入滅されて100年ぐらい経過すると、弟子たちが受け継いだ仏教の教団が、上座部と大衆部に分裂します。これを仏教の根本分裂と呼びます。
■上座部と大乗の対立■
お釈迦様自身が菩提樹の下で悟りを得た時、その達成感に、もう死んでもいいと思ったのですが。その到達した深遠な悟りを、衆中に解くことをブラフマー(古代インドのバラモン教の神様。後に仏教に取り入れられる。漢字文化圏では梵天と呼ぶ)に願われたという伝説があります。これを梵天勧請と呼びます。お釈迦様は、自分が到達した真理はあまりにも複雑玄妙なので、一般大衆には理解できないと躊躇されますが。思い直して布教の途に着きます。
『西遊記』の影響もあってか、日本人はなんとなく大乗仏教の方が優れていると考えていますが。実際には原子 仏教の形を最も止めているのが、上座部仏教です。本来は自分自身を修行によって高め、その到達した真理を大衆に解く、という形だったはずなのですが。仏教はある時期から大衆救済が主たる目的の、変質を起こします。これは、ユダヤ民族の民族宗教であったユダヤ教が、キリスト教に変質したのにも似ています。
自分が得た知識であったり力を、他人のために使う、利他的な行為を尊ぶのは、人類の本能みたいな部分があります。アフリカの森から草原に出た人類の先祖は、鋭い爪も力強い牙も持っていなかったのですから、集団で対抗するしかなかったわけで。群れの力を最大限にするために、利他的な行為を尊ぶ部分を、本能あるいは文化的に獲得したのは、疑いないでしょう。
■利他的な行動の暴走■
でも、この大衆救済というのが、曲者といえば曲者。間違いなく善きことであるという正義をバックに、しばし 暴走するものです。差別に反対するような悪人は差別していいとか、そういう論理的な矛盾を起こしてしまうんですね。で、西洋ではユダヤ教から分裂したキリスト教が、多分にこういう面を持っていたわけです。自分の中にある、強者に対するどす黒い妬み=ルサンチマンを、神の正義にすり替えたわけです。
その、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直したのが、カール・マルクスの共産主義思想の、正体です。だから、その影響を直接的・間接的に受けた現代の左派 活動家や政治家は、大衆のための正義を自分は実現しようとしている正義の側と、無邪気に自己規定して、しばしば暴走するのです。子宮頸癌ワクチンやあきたこまちRを批判することが本気で正義だと思っているから、たちが悪いんです。
オタクというのは、上座部仏教の修行者みたいなものですから。他人のことよりも、自分が好きなものに没頭するタイプです。でも、自分の好きなものに徹底的にこだわるがゆえに、幅の広さはなくても深さを持つことが、しばしあります。その結果、何が起きるかといえば、左派の薄っぺらい論拠に、それは間違いですよと、空気も読まずに指摘してくるわけです。
■オタク=ネトウヨ?■
1999年に2ちゃんねるができたとき、例えば韓国が吹聴する日帝の悪辣な行為と言った話題でも、歴史資料を引っ張り出してきて、間違いを指摘してくるわけです。本人は単に歴史が大好きで、思想の右とか左とか関係なしに、間違いは間違いだと、指摘しているにすぎないのですが。イデオロギーに絡み取られた左派からすると、それは正義の否定であり、自分自身への否定と受け取ったわけです。
近年のネット右翼とオタクを同一視する、雑な議論の根本的な原因です。一般に、オタクと呼ばれる人々の多くは、自分の趣味に没頭する利己的な存在なのは事実かもしれませんが。自分が好きなものを攻撃してくる者に対しては、本気で対抗するわけです。だからこそ、石原慎太郎都知事の表現規制に対しては、共産党や社民党などと一緒に反対したわけで。あえて言えば右でも左でも、価値観を押し付けてくる人間が嫌いなわけです。
ところが日本の左派は、自分たちが他人に思想を押し付ける、全体主義的な傾向があることに、あまりにも無自覚です。そして、昔は表現規制に反対していたはずなのに、自分たちがいつのまにか規制派に変節したことを、認めない。自分たちは間違いなく正義で、その正義の観点から正義の基準を見直しをしただけで、変節などをしていないという立場です。それゆえ、上座部的オタクを憎むんです。
■正義は暴走も正義?■
俺達は大乗だ、大衆を救済するという絶対正義を掲げているのだから、オレたち偉いんだ……と権威付けするんですが、そこに深みがない。左派に本当の思慮深さや学際的な見識があるならば、1954年に福田恆存に『平和論の進め方についての疑問』で論破された時点で、軌道修正できたはずです。ところがそんなことはなく。福田恆存や葦津珍彦といった、本物の右派論客からは、逃げ続けたわけです。
その結果が60年安保反対闘争であり、70年安保反対闘争だったわけです。ソビエト連邦・中華人民共和国・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などにとって、とても都合のいい日米安保 反対運動に血道をあげ、多くの死者を出し。でも今となっては国民の多くは日米安保を支持し、自衛隊の存在を認め。ついでに皇室を敬愛し、日の丸は国旗であり君が代は国歌であると認めているわけです。
それでも昭和の時代は、マスコミと教育界を押さえていたので、本物の論客の指摘は無視し黙殺し、低レベルな国際主義者や民族主義者の意見を取り上げ、批判して見せるポーズで、ごまかせていたのですが。インターネットの出現とSNSの発達によって、その化けの皮が剥がれてしまった。コミュニティノート砲を喰らい、ネトウヨの陰謀だとかいつ乗るのは、エコーチェンバーの温室の中で、知的怠惰を重ねてきた結果にすぎません。
左派にとって必要なのは、事実ベースで議論し、ハードファクツを重ねて合意や妥協や保留に至るという、ごく当たり前の議論の原点に立ち戻ることでしょうね。万機公論に決すべし。この原点に立ち戻ることなくして、昭和の時代のような力押しでやろうとしても、マスコミ いや アカデミズムがすっかり信頼を失った令和の時代には、もう無理です。
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