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適応障害〜休職中のあれこれ⑤〜

前回の続き

適応障害の診断を受けて休職し始めてから3〜4ヶ月が経ったことの話である。

私はとにかく「一人になりたい」「人間と関わりたくない」という感情が強くなっていた。

にも関わらず、「家族に迷惑をかけられない」「家族に心配かけたくない」という心の壁を乗り越えられずにいた。

この葛藤を抱きながら実家での療養期間過ごしていたわけで、自分でははっきり言って「これじゃ療養になっていない」と感じるようになっていた。

そもそも、私が実家での療養を決意した一番の理由は「妻への負担をなくす」ことだった。

私が適応障害で倒れた時、実は妻も職場ではかなり大変な状況になっていた。
妻は転職してまだ3ヶ月程度で、新しい職場の人間関係に悩まされていた。
私は妻から良く職場での話を聞くことがあるが、この当時(適応障害発症前後)私は妻の話をおそらくまともに聞いてあげることができていなかったと思う。

話を戻すと、私が実家療養を決断した理由が、職場で大変な状況にある妻に、家でもうつ病の夫の面倒を見ろ、というのは忍びない、そんな想いが大きくあったからである。

しかしながら、私は両親との生活をこのままうまくやっていける自信を無くしていた。
いち早く一人でどこか、サイコロでも振って出た目の数で決めたところに旅に出たい。
まさに『現実逃避』を望んでいた。



そこに、一通のLINEのメッセージが届いた。



「助けて・・・」



妻からのSOS


どうしたことか、うつ症状で何においてもやる気の出ない状態だった私の心に、一気に火がついたように動き出した。

「どうした!?何があった!?」


その時、妻は義両親と岐阜に旅行に行っていた最中だ。
飛騨高山の合掌造り、上高地なんかに足を伸ばすという旅程を聞いていたんだが、、、

「ホテルで熱を測ったら40度近い・・・」

この当時はまだ毎日のように新型コロナの感染者数のニュースをやっていた時期。

(コロナ感染か、、、とりあえず妻もうつ症状とかじゃなくて良かった)

内心ホッとしたのは妻にはナイショである。

(よし、これで実家を抜け出せる。ワクワク。嬉しい。)

内心とてつもなく開放感で満たされていたことは両親にはナイショである。


ということで、妻は岐阜からなんとか一人で自宅へ帰還、私は連絡を受けた翌日早朝には飛行機に飛び乗って帰投した。

コロナ感染者も多かったので、近所の病院はどこも予約でいっぱい。受け入れてもらえず。
帰宅した当日、体温計は40度を上回った状態が続いていたものだから、救急でも呼びたいところだったが、経口補水液とポカリとinゼリーでとにかく時を繋いだ。

翌日、以前住んでいたところの病院(車で1時間以上)が、診察券さえ持っていれば受診させてくれるとのことで、予約をして受診。
なんとかコロナ特効薬的なものも受け取ることができた。


この時の自分は、「妻のため」にとにかく動いた。
脱力感?めまい?不眠?
そんなの関係ない。やるべきことをやるんだ。


おそらく、適応障害やうつ病になってしまう人には、
使命感が強いとか、生真面目、他人のためならなんでもできる、
のような特徴を持った人が多くいるのではないか。

私は、大学時代から「他人のためにしか生きられない人間」と自分のことを分析していたし、友人からも言われていた。


妻がコロナに感染したこの時、まさにその力が十二分に発揮された。


不思議なものだ。


今も妻のためならなんでもできると思う。

自分のためにはできないことも、やると思う。


でも、今私が身につけたいのは
「自分のために、自分に甘く生きる」こと。

他人のために生きる力は、エマージェンシーモードとして取っておくことにしている。


かくして私は妻がタイミング良く?コロナに感染してくれたおかげ?で両親の元を離れることができ、自宅で療養を続けることになる。

そして、念願だった自転車の旅へ・・・・


続く。。。



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