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適応障害(うつ)と子どもについて考えてみた
考えてみたシリーズも四つ目か五つ目だ。
今回は年始の帰省で久々に姪っ子と甥っ子を相手に奮闘した二日間について
振り返ってみたら、そういや、そうか、と感じたことを綴る。
子どもは正直物だ。
自分の感情に対して、まっすぐだ。
直球ストレートを大人にぶつけることができる。
泣きたい時は、大いに泣く。
大きな声で、恥じらいなく涙を流しながら訴える。
ただただ雪で顔が冷たいだの、手袋に雪が入って嫌だの、
そんな些細な「ストレス」に対して、はっきりと自分の感情を表現することができる。
楽しい時は笑顔になり、ゲラゲラ笑う。
親にバレないと思ったら、小さな悪だくみを実行にうつす。
別れの時には感情のままに、ぎゅーっと抱きしめてくれる。
だからきっと子どもは大人よりも精神的に疲れているはずなのだが、
翌日にはちゃんと起きて、冴えない太っちょの髭の伯父さんをケロッとした顔で起こしに来る。
きっと、感情をオモテに出し続けることで、その時その時でストレスたちを発散できているのだと思う。
大人からすれば、ほんとにしょーもないことでケンカするし、泣く。
マリオカートごときで夢中になって笑うし、怒る。
その都度都度で、出来事に対して感情を処理してるから、気持ちもリセットされるんではないか。
彼らと二日間過ごした中でそう思った。
大人はどうか。
自分の感じたことを抑え込み、
表現できずにぐっとこらえて、
はいよろこんで、が流行るくらいに、
ガマンの習慣化が進んでいる。
子どもたちを見て自分の子ども時代を思い返したけど、
こんなにストレートに表現したのかな。
思ったことを口に出す習慣をもっとつけておけばよかったと、後悔している。
なぜなら、いま36になったわたしは、
自分がなにを感じているのか、
出来事に対してどう思うのかを問われても、
言語化できないからだ。
自分の感情がわからない。
説明できない。
でも、社会では何かしらのレスポンスを求められるし、社会的に認められるには、とにかくクイックレスポンスが重要だろう。
とりわけこの高度情報化社会においては。
だからわたしも、
「はい!」「Yes!」「よろこんで!」
の3拍子が得意技だった。
わたしはある程度、周りの人から頼られる人材だという自負はある。
いわゆる「真面目」そうだし、言動も考えられたものに「見える」からだろう。
しかし、本当のわたしは、ただ単に落ち着いた「雰囲気」を醸しながらも、
どんなことに対しても「はいよろこんで!」
とクイックレスポンスする、マシーンのような人材なのだ。
これは高校時代から後輩からよく言われていた。
バスケ部顧問から指導に対して全て「はい!」と回答していたわたし。
後輩たちは疑問がある時はきちんと対話していたし、表現していた。
わたしはそれが出来なかった。
出来なかったというより、なにも考えていなかったし、なにも感じていなかったんだろう。
この習性が、社会の荒波の中で、全てを「はいよろこんで」と受け取るわたしを作り上げ、
最終的に適応できなくなり、障害を乗り越えられなくなったのだろう。
たぶんだが、適応障害や抑うつ症状の経験者の方は、同様に自分の感情を表現できなくて困っている方もいるのではないだろうか。
感情を説明できない、なにを感じているか自分でもわからない、
楽しい、悲しい、怒っている、喜んでいる、
自分はいまどこに当てはまるのかすらわからなくなっている。
現在進行形でわたしもそんな感じだが、
二日間子どもたちとプロレスをやりきった中で、
彼らから少し感情表現を教えてもらえた気がする。
大人とか子どもとか関係ないと思った。
社会に出て、目立っている人や活躍する人は、自分の感じたことにストレートで、
きっと子どもなんだ。
わがままぶっこいて、泣きわめいてゲラゲラ笑って大人を困らせて、そんな人が社長になってたり、起業家になってたり、人の上にたってたりするんだ。
まあそういう人に困らされた大人の人たちが適応障害とかになるんだろうが。
うーむ。
どうするのがベストなのかわからないが、
いまのわたしには、久々に子どもたちと遊んだことが、
少しヒントになったような気がしたのである。
ちなみにうちの妻さんは、感情表現が豊かなバリキャリです。
良かった。