実りの無い文章=「その人ただひとりの中にある文章」
荒川洋治の『文学は実学である』は、買っておいて何なのだけど、第一印象はそんなに良くなかった。実学?というのが、役に立つもの、という感じがして、文学は実学なのか? 実学である必要があるのか? そんなにわかりやすく役になんか立たなくていいじゃないか、と思っている自分としては、むむむ、という感じだったのだろう。
ところが読んでみると、微塵もそんなことはない。
実りのない文章だ。まったく実りのない文章を書くものだ。そして実りのない文章は、その人ただひとりのなかにある文章なのだ。ぼくはそうも思ったのだ。
なんの役にも立たない文章、実りのない文章、何も書かれていない文章に憧れる。荒川洋治は、そういう実りのない文章を「その人ただひとりの中にある文章」と言うのだけどなんと素晴らしい表現だろうか。
例えば日記の、どこから始まっても、どこで終わろうともいいような文章。大きな物語も、意味もない文章、なのにおそらくその人にとっての真実の残滓のようなものがそこにはあるような文章。淡々と語られる、記録される日常。
毎週こんなことを徒然なるままに書いて、ほぼ誰にも読まれず、何の実りがあるのか。いやいや、実りなんかなくていいのであるよ、というそんなお話。