海と毒薬 遠藤周作
ボランティアとして、途上国の小学校でパソコンの先生をしばらくやっていたことがある。海に面した灼熱の特に何もない街で、のんびりと現地の子ども達と遊んだり笑ったり、たまに怒ったりもしながらパソコンを教えていた。
こういう話を人にすると大体「良いことをしたね」というような反応が返ってくることになる。それはもちろん嬉しい。
でも僕自身は僕の心の中に根ざしているものが何か知っている。だから自分の中では「良いことをした」という実感をあまり持つことができないでいる。正直に話せば、ボランティアを志したときに僕の頭の中にあったことは主に英語力が欲しいということで、英語力を身につける延長上に誰かが幸せになれば良いな程度の良心しか持ち合わせていなかった。
ただボランティアとしての活動に手を抜いたかと言われればそういうわけでもない。少しでもまともな授業を行おうと日々教材の研究や教育に関連する本を読み漁りながら、同時に台数の足りないコンピューターをアメリカのNGOと協力して10数台輸入したりと、自分なりにできることを一生懸命やった。けれど根本的にはやっぱり英語力の獲得が僕の中での大きな目標だったし、その上で全ての活動が成り立っていた。
僕の活動は良心的ではあったかもしれない。でも聖母マリアのような絶対的な他者への奉仕かと言われれば断じてそうではない。もっと私欲にまみれた単純に良心では割り切れないものが僕の心の中には間違いなくあったし、それに葛藤した。
目に見える事実が目に見えるだけシンプルなことなんてないんだ、と僕は思う。
そしてそれは目に見える良いことに限らず、目に見える悪いことにだって当てはまる。矛盾や葛藤を抱えない完璧な善や悪が果たして本当に存在するのだろうか。もしかしたらあるのかもしれない、でも少なくとも全ての善悪がそうではないだろう。
遠藤周作の「海と毒薬」はそうした"完璧ではない悪"を描いている。第二次世界対戦の末期に米国人の捕虜を生きたまま生体解剖した実際の事件を下敷きに描かれたこの小説では、生体解剖に立ち会うことになってしまった医学生の解剖に到るまでの心情が丁寧に描写されていく。
題材が題材だから医学生を極悪人として描くことは容易いし、時代に抗えなかったある種の被害者として描くこともできるだろう。しかし、この小説はどちらでもない。絶対的な悪の心を持っていたわけではない、基本的には善人であった主人公が、参加を拒否しても問題がなかった生体解剖へと参加してしまうまでの、白と黒では説明できない人の心を描いている。
もちろん悪いことを正当化はできない。医学生はその生体解剖に参加するべきではなかったし、もっと言えば止めるべきだったのだろう。それは間違いなく悪いことだ。でも単純に彼を極悪人として切り捨てて断罪するべきなのかと言われると、これを読んだあとではイエスとは言い難い。
一方で解剖され殺された米国人の捕虜にも家族がいたことまでを想像すると、なんともやりきれない気持ちになってしまう。だが、誰かを単純に非難することをこの物語は許してくれない。
僕らは少なからずそういう白とも黒ともつかないグレーな部分を持っているのだと思う。普段はあまりそれに目を向けることはないけれど、そんなものはないと思っているとその慢心に足を救われてしまう。この物語の中の医学生のように。
気が付いたときには自分が悪人になっていて、みんなから非難されている。自分でもそれが悪いことであることは認識している。ただ、どうしてそんなことをしてしまったのか説明ができない。それはその人がそもそも悪い人だったからなのだろうか、それとも誰しもそうなってしまう可能性を抱えているからなのか。
この問いにきっと答えはない。でもだからと言って目を背けてしまおうとは個人的には思えない。何も生み出さないもしかしたら非生産的な問いを、でも考え続けられることが人間らしさなのではないかと思うから。
ただ「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」的な格言にある通り、そんなことをずっとやっていると精神的におかしくなってしまいそうな気はする。だから時々ふと思い出したときに、普段は行かない魅力的だけれど入りづらい居酒屋にふらっと入る気持ちで、この深淵とやらをのぞいてみようと、そんな風に思っている。
海と毒薬
遠藤周作
角川文庫 1960年
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