映画『トラペジウム』ネタバレ感想
記事執筆のきっかけ
この映画をみたいろんなオタクのいろんな感想が飛び交っており、それらを踏まえて自分が思ったことを整理する。
ちなみに映画を見ようと思ったのはなんとなく気になっていたため。もっと言うと、公式Xができたときに明確な根拠はないけど自分に刺さりそうと思わされたから。
自分の前提の知識
この映画に対しては、元乃木坂46の高山一実原作の小説が「アイドルを目指す学生の物語」として映画になった程度の解像度で、原作を読んだわけでもキャラクターの設定やあらすじについてのインプットは全く行わなかった。また、アニメとアイドルのオタクコンテンツに対しての前提知識については、めちゃくちゃ深いわけではないけどそれなりに行間を補完して理解しながら進められる程度ではあった。
正直この映画って普段どういう思想でどういうものを好んでいるかのバックグラウンドで受け取り方めっちゃ変わると思う。自分のバックグランドについては過去noteに記載したことがあるのでこいつはどういうバックグラウンドでこの解釈をしているのか?興味を持った人は以下を読んでみてほしい。
感想
何を思ったか
まず最初に感じたのは「思っていたアイドルアニメと違った」ということだ。アイドルになる入り口から違った。おおよそのアイドルアニメはまずグループを結成しないと始まらない。
一方、本作品では主人公・東ゆうが0からメンバーを集めてある種の友人関係を構築するところから始まった。ロードマップを作成している東のみが理解をしていて、それ以外のメンバーはアイドルとしてだけでなくそもそもの関係性が0というのが自分が今までに観たことないアイドルアニメの導入だったので新鮮に感じた。他作品との差別化ポイントである以上にこの作品のポイントなんだなって思った。
そんな「アイドルになるためにめちゃくちゃ考えている主人公が、アイドルとしてステージに立つことはできたものの、活動休止ののち仲直りをする」この作品を観て、自分の中に残ったメッセージは、「独りよがりで理想を押し付けて誰かを傷つけていないか?」ということである。
本作品で東西南北(仮)が活動休止してしまった原因は、東が他のメンバー顔を見ることなく理想のアイドルになる(として居続ける)夢を追い続けたところにある。認識のすり合わせって大事。終始主人公視点で他3人の内面を掘り下げなかったのもこの主人公が本当に自分のことしか考えていないってのをよく表していたなと思う。
冒頭のキービジュはアイドルの放つ輝きについての憧れがテーマになっているが、以下のテザーでは一人ではアイドルになれないことを突きつけられている。
「独りよがりで理想を押し付けて誰かを傷つけていないか?」というメッセージが自分の中に強く残ったのは、「それに近しい経験をしたことがないか?」という問いを投げかけられているような気持ちになったからだと思う。
アイドルオタクとして、アイドルである推しメンに対してちゃんとしたコミュニケーションを取らずにこうあってほしいという理想を押し付けていた自分を省みて胸が苦しくなった(ちゃんと過去形にできているのかわからんけど)。原作者が元アイドルだからこそ傷が深い。
アイドルオタクとアイドルの関係でなくとも、「ある人が青春を捧げていたものが別の他人にとってはそこまでのものではなく、コミュニケーション不足で溜まったフラストレーションが爆発した」という事象を経験したことがある人は多いのではないか。
印象に残ったシーン
個別に印象に残ったのは事務所に所属して、SNSに力を入れようという場面。キャラクターがウケてるロボット制作の西(大河くるみ)、育ちの良いお嬢様の南(華鳥蘭子)、ボランティア活動の北(亀井美嘉)の3人に対してコメント数が少ない主人公・東ゆうの対比。最初このシーンを見た時は東ゆうが何も強みを持っていない劣等感の描写だと思っていた。
だが後半に印象が変わった。変わったきっかけはアイドルを辞めたあとの話をする場面。東以外それぞれは語れる夢・進路があるもののの、東はそれがなかった。
先ほどのSNSのコメント数格差のシーンって、アイドルを辞めたとしても他の道がある(≒アイドルへの熱量が相対的に小さい)3人と、アイドル活動に全てを捧げて他の道を考えていない東の対比だったのかなと解釈している。
総括
賛否両論あるらしいが個人的には面白かった。
終始東視点で進行して、東の周りの見えなさを表現するだけでなく観客にも他の目線が入らないようにバイアスかけられてたのかなって一杯食わされた気分。まあこれに関してはテキストのコンテンツを漁ってみて、単純に映画で端折っただけなのかどうか確認してみても良いかも。
アイドルを好きな人アニメが好きな人だけでなく、何かに熱量を注いで活動をしている人に見てほしいなと思う作品でした。
追記
仲直りへの見解
「東にされた仕打ちを考えると大人になって友だちとして関係が続いてることに違和感がある」というのがこの映画が賛否を呼ぶ最も大きな場面だろう。この場面に関してそんなに違和感がないというのが自分の感想である。
それは東に対して肩入れをしているわけではなく、ただ作品でそういう流れになっていることに対してそうなっていることに納得はできるというぐらい。
ここの納得を言語化してみようと思う。前提として、友だちとして付き合いたい気持ち以上に東を許せない気持ちが上まっていると解釈しているからこの違和感が生まれるとおく。最終的に「東を許せない気持ち<友だちとして付き合いたい気持ち」という不等式が導き出せればこの違和感は解消する。
「友だちとして付き合いたい気持ち<東を許せない気持ち」の不等号の向きが変わるには「東を許せない気持ち」の解釈を弱める、「友だちとして付き合いたい気持ち」の解釈を強めることが必要になる。
直接映画で描写があったシーン、あるいはその背景にあるのではないかと自分が解釈していることからギャップを埋めていく。自分が思いついたのはこの4つあたり。
アイドルとしてデビュー前に友だちとして楽しい思い出が残ってる
アイドルとしてデビューしてからも楽しかった部分はある
なんとなく東の目的を察しっていた部分がありつつもそれを黙認していた
東が主張させない雰囲気を作っていた部分はあるが主張しなかったことに対しては3人にも歩み寄れる余地があったと本人たちが思っているのではという推察である。自分たちをアイドルにして同じ目に合わせることはないという確信がある
アイドルへの異常な執着に目を瞑れば(というかその異常な執着が自分に向けられないと確信できれば)心理的安全性は確保できる。例えば仮にこの執着をアイドルグループのメンバーに向けていたとしても(東だったらありうる)、他の3人がそれを止めさせるために動く人たちには思えない。
これらの和である「友だちとして付き合いたい気持ち」、「東を許せない気持ち」を上回るには十分ではないかというのが自分の解釈である。
そもそも「東を許せない気持ち」が3人にとってどれくらい強かったのかは一考の余地がある。東個人に対しての恨みを抱いているような描写もなければそう解釈できる伏線を自分は見つけられなかった。個人を原因だと思っていないなら関係の修復が容易なのではないか。そもそもそんなひどい壊れ方していないまである。
原作を読んだらまた違った視点の解釈が生まれて意見が変わるかも、とは言っておきたい。
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