#2 ドゥ・ザ・ライト・シング を見た。
2022年5月30日。月曜日。
5月はもう終わる。一年の半分がもう始まろうとしているこの日に、私は「ドゥ・ザ・ライト・シング」を見た。オール明け、彼氏になりかけている人と次に会う約束をして、一睡もせずに見た。
今回は記念すべき?私の二回目の映画記録である。何度もくどいようであるが、私は自分がかなりの映画好きだと思っている。でも、私よりも映画を見ている人もいるし、映画をよく知っている人もたくさんいる。だから、このnoteは、大学四年生のそこら辺によくいる映画が好きな女子大生が、自分の今までの経験や、最近考えていることにつなぎ合わせて、映画から、自分を考えていくというものだと思ってもらいたいです。
と、前置きはここまでにして。今回は記述している通り、「ドゥ・ザ・ライト・シング」という映画を見ました。この映画を見ようと思ったきっかけは、アマゾンプライムで視聴できる時間があとわずかであったからです。つまり、この映画を見たかった、見ようと思ってみたわけではないですし、私は普段映画を見る際は、あらすじを見てから見るようにしているのですが、この映画はそんな下調べもなく見始めた異例の映画です。
初っ端、思ったことは、これはいったい何の内容の映画なの?です。
始まりは永遠に誰かが踊る映像で、ファイト!ファイト!言ってるので、これはきっとボクシングの映画なのだ!と思っていました。(この思い込みは結構続く)
端的に感想申し上げますと、人種差別について考えさせられる内容であったし、今、私が置かれている状況の中で実は一番じっくり考えたいことなのではないのか?ということに気づかせてくれるものでした。
この映画、黒人街でピザ屋を営むイタリア人の家族と、その街で暮らす黒人たちの話で、すごく熱い夏の一日を描いた作品です(簡単にまとめすぎ)。
しかし、この黒人街というのがものすごく治安の悪いというか、常にどこかしらで言い争いが起きています。
その一日の中で、いろんなことが重なり、そのピザ屋が黒人たちによって襲撃されます。そして、怒り狂ったイタリア人の店主と黒人たちが大きなけんかになり、止めに入った白人の警官によって、罪のない黒人が絞め殺されてしまうのです。それに怒り狂った黒人たちは、そのピザ屋を荒れに荒らし、最後には火を放ちます。
これがこの映画のクライマックスです。
私が、この一連のシーンを見たときに真っ先に思ったことは、白人は常に黒人に対して武器を用いていて、黒人たちは武器を持っていないということです。
この一連のけんかの発端は、黒人たちがこのピザ屋に黒人の写真が飾られていないことに言いがかりをつけることからでしたが、そこに一緒に来た、いつも大音量でラジオを流しているラヒームのラジカセが、イタリア人によって、バットで壊されます。
そして、白人の警官が黒人を殺したときも、彼らは警棒で彼を締め上げていました。
一方の黒人たちは、自分が用意した武器など持たず、そこにあるもの、そして自分の体で怒りを訴えているのです。
ここに現代でも人種差別が改善されない理由があるのではないのかと思いました。
と、ここまで偉そうに人種差別のことを話してしまいましたが、私は大学では心理学を専攻しており、特段社会学や国際問題に精通しているわけでもありませんし、国籍も両親も日本人のため、日本に住んでいて差別を受けたこともありません。そして、私は高校の修学旅行で一度しか海外に行ったことがありませんし、そこは東南アジアのベトナムでした。つまり、私は、自らが人種で差別される環境に身を置いたことがないのです。
しかし、先に述べたように、実は私が今一番考えたいことなのではないのか?といったことには、ちゃんと実体験にともなった理由があります。
それは、バイト先での出来事です。私のバイト先では、最近は大学生が一気にやめて、人手が足りず、新しいアルバイトの人を探しています。そんな時に、外国人の方が多くうちのお店に応募してきてくださいました。中国人、アメリカ人、スリランカ人、バングラデシュ人、ベトナム人などなど。私は彼らから、母国の話を聞くことや言語を教えてもらうことが好きですし、彼らも一生懸命に日本語で伝えようとしてくれるその姿に、私も真剣に仕事を教えたり、生活で困っていることのアドバイスをしたりしていました。
そんなある日、これは中国人の新しく入った方が、クローズ作業で、自分の決められた仕事の時間が来たからと、まだ仕事が終わっていないのに退勤してしまうということが起きました。それには、バイトリーダーがしっかりと教育をし直し、それでことがおさまったかと思ったのですが、次の日、その中国人の彼は、早く来たから時間よりも先に仕事を始めたいと言いました。そしたらまた、バイトリーダー教育しなおしたのですが、そばで聞いていてかなり怒った様子でした。
そこまではよかったのですが、その彼は次の日にバイトを辞めてしまいました。
そんな一連の出来事があった時、私はそのバイトリーダーと話をしていて、とても驚きました。彼女の発言には、いくつかその中国人の方に対しての人種差別的な発言があり、どこかでこっちがいくら言ってもわからないといったあきらめも感じました。
私はこんな身近に人種差別の考えを持っている人がいることに恐怖を感じました。生まれて初めて、人類はみんな兄弟ではない、ということを感じました。
そのバイトリーダーの話の中では、以前までいた黒人の方も、最初の頃掃除を任されるたびに、「またそうじですか…」という反応をされたとも話していました。
そこにも、私にはわからない悩みや苦しみ、物事の見方があるのだと思いました。
コロナ禍になって、アジア人への偏見や、非人道的な言動が目立ちます。
しかし、これはコロナ禍になって始まったことではないです。
私は、韓国のアイドルグループBTSのファンなのですが、彼らはアメリカへと活動の幅を広げていき、グラミー賞にもノミネートされるなど輝かしい活動を続けていますが、彼らもアジア人だからと、うがった見方で見られ差別されていることがあるのです。
そして同じアジアでも、先ほどの私のバイト先の例もあるし、それこそ、韓国と日本は歴史的問題、昨今の社会問題で、仲たがいが起きています。
全人類がみんなで手を取りあって、笑いあって、お互いの違いや文化、考え方や信仰、大切にしている価値観やものを認め合うことはできないのでしょうか。
私は、世間を知らなすぎる、ただのちゃらんぽらんな大学生です。でも、本当に世界中から人種差別という悪が消えたらどれだけ平和ですべての人が過ごしやすい世界になるのかと思います。
国籍や肌の色、ジェンダー意識など、全てを認め合いそれを超えた実力や考え、その人個人の特徴や性格などで平等に評価される世界にはどうしたらなるのでしょうか。
こんな世界平和、みな平等など、夢見事に過ぎないのかもしれません。大学生にもなて、まだそんなこと言っているなんて何を学んできたのかと非難されるのかもしれません。だけど、私が言いたいことは、世界中が差別的な考えを持った人であふれているのではないのだということ、全てのことを知ったうえでも、個人によって考え方や感じ方、行動への表れが違うことを、せめてもすべての人が知る必要があるのだということです。
映画の話とは全くそれてしまいましたが、映画の最後に印象的な言葉が語られていました。
「人種差別に暴力で戦うことは愚かなことである。暴力は破滅に至る螺旋状の下り階段で、目には目をの思想はすべてを盲目に導く。」
という、マーチン・ルーサー・キングの格言です。
私はこの映画を見て、白人にも黒人にも、誰にも納得もしてないし、理解もできませんでした。そして自分が「いい人間」であるとも思っていません。
きっと、誰かに同情したり、誰かの考え方の片棒を持ったりした時点で、人種差別問題の解決は遠のくのだと思います。
自分のアイデンティティとして日本人を意識したことは今までありませんが、私は確実に日本人であるし、これから先も日本がある限りは日本人です。
私のような人もいれば、自分の人種や国籍を偉大に思っていて、アイデンティティとしている人、もしかしたら逆の意味でアイデンティティにしている人がいることも知っています。
この一本のnoteだけでは、人種差別について考えることは無理です。
だから私は、この映画をきっかけにして、これから先何十年間も人種差別について考え、自分なりの答えにたどり着きたいと思います。
そして、タイムリーな話題ですが、私の大好きなBTSがアメリカのホワイトハウスで、バイデン大統領と、アジア人差別問題についてお話しするそうです。一アジア人として、一ファンとして、一学生としてとても興味深いです。必ずチェックして、今までのBTSの活動や発信から感じた、考えた、アジア人差別、人種差別についてもまた私なりに発信したいと思います。
今回は、「ドゥ・ザ・ライト・シング」という映画を見ました。しかし、私の映画を見るときのポリシーは、同じ映画は二度見ないことです。おばあちゃんになった時、全ての映画を見終えたと思ったらまたみたいと思います。その時まで。また。