平山さんとは、何か。『PERFECT DAYS』の感想と考察。
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』を観てきました。
鑑賞後、ジワ〜っと腹の中に広がる温かみを感じる、自分の生活を見直す新年にはぴったりの映画でした。
平山さんという存在について、そして映画全体を通して感じたことについて書いていきます。ネタバレありです。
あらすじ
平山とは、「暮らし」におけるひとつの概念である
まず、平山という存在について整理しておきたい。
彼を彼たらしめるシーンはいくつもあるが、私は特に外出前のワンシーンが特徴的であると感じた。
平山邸の玄関には外出時に身につけるアイテムが並んでいる。財布、携帯電話(ガラケー)、フィルムカメラ、腕時計、小銭。
興味深いのは、出勤日は腕時計を身につけないという点。
掃除という仕事上、汚れるのを避けるためという見方もできるが、時計を確認しなくてもある程度の時間を把握できるから、という平山の徹底したルーティンを際立たせる材料になっている。
ここから読み取れるのは、平山の「必要なものと不要なもの」を明確に分ける美意識だ。
不要なものを削ぎ落とすことで、彼らしい「暮らし」が逆説的に浮かび上がる。
そして、それが人モノ情報に翻弄される現代を生きる人々の「憧れ」として描かれているのだ。
実際、本作のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」だ。鑑賞後「平山さんのような暮らしができたらなあ」と思った方は、少なくないのではないだろうか。私もですが。
撮影手法としても、彼が視線を向けた先にカメラが移動する平山視点のカットが盛り込まれていることから、擬似体験として平山の「暮らし」に介入させる試みが見受けられた。
ただ、一つ注意しておきたいのが、これはリアルなのか?という点である。古本屋や銭湯など、身近なスポットが多く登場するためリアリティのあるものだと錯覚しそうになるが、私はリアルとは離れたところに平山を感じる。
こんなにも禁欲的な自律した生活を送れる人間が、この世にどれだけいるだろうか。
リアリティがないというより、俗世離れしているという方が正しいかもしれない。
全体として「平山さん」そのものに憧れるというよりは「平山さんのような暮らし」に憧れるように設計されているように感じた。「平山=暮らしの一つの概念」と位置付けた所以はここにある。
トイレ清掃員として描かれる意義
平山が「トイレの清掃員」である意義についても見ておきたい。
彼の職場は都内の公衆トイレ。気鋭のクリエイターが設計したであろう外観がオシャレなトイレたちは、蓋を開ければゴミが散乱していたり、吐瀉物が広がっていたりする。(画としては登場しないが)
一方、平山の家は外観はオシャレとは言えない、はっきり言ってボロいアパートである。しかし、部屋の中は綺麗に整頓され、本、盆栽など好きなもので彩られた、彼にとっては素晴らしい城である。
内面と外面のチグハグ。この対比は、人に対しても投影されている。
清掃員の制服を着た平山が、道ゆく人からはまるで見えないものであるかのように扱われるシーンがある。清掃中の看板を蹴飛ばすサラリーマン、子どもを保護してもらったのにお礼を言わない母親。
舌打ちくらいしてしまいそうな状況であるが、彼は動じない(ように見える)。なぜなら、内面が整頓されているからだ。
(と、平山の平山らしさを垣間見る上で、トイレ清掃員であることに意義は感じつつも、綺麗すぎるトイレ達には少し違和感を覚えたことは確かだ。)
何を持って「PERFECT」な「DAYS」とするか
先ほど、平山が不要としているものとして「腕時計」を挙げたが、もう一つ特徴的な要素がある。「言葉」だ。
本作にはセリフがとても少ない。同僚のタカシからも「無口」な人というレッテルを貼られており、タカシからの問いかけをスルーするシーンも多くある。平山にとって、タカシへの返答はほとんど不要なもののようだ。(かわいそうに)
ただ、これは嫌いだから、とかそういう類のものではないだろう。彼にとって、答えるべき問いかけとそうでないものがハッキリしている結果、起こっているナチュラルシカトなのだ。
さて、平山にとって「言葉」は彼のルーティンの中ではイレギュラーなものだと言えるだろう。彼自身からの言葉は不要だが、周囲からの言葉はその時々で必要か不要かが判断される。
「言葉」はイレギュラーではあるものの、平山はそれさえも「暮らし」の一部だと認識しているようだ。周りからの頼まれごとも無下にせず、とりあえず自分のできることをやろうとしている姿が描かれている。
つまり、彼は決して排他的な人間ではない。
まるで鳥に巣を作られても振り払ったりしない、自分の陰で一休みされても受け入れる木のようだ。
確立された自分に加え、周りで起こる出来事を受け入れたときに彼の「PERFECT」な「DAYS」は完成するのだろう。
ぼんやりとくっきりが混在している違和感
次に各シーンや設定への言及を少し。
全体として緩やかにぼんやりと時間が進んでいく本作だが、たまにくっきりとした描写があり、私はそこに違和感を感じた。
セリフがほとんどないので、基本的には「各自で読み取ってください」というスタンスではあると思うし、それはそれで全然いい(むしろ個人的には好き)のだが、たまに差し込まれる「くっきり」とした描写が気になる。
一つ目は、アヤ(タカシのガールフレンド)からのほっぺにチュー。
これは単純に、少しダイレクトすぎやしないかと思った。
村上春樹的な世界というか、無欲な男性がなぜかすごくモテる、というこれまた強引さが少し違和感だった。村上春樹が嫌いなわけではないのだが、彼の小説でいつも少し引っかかる部分ではある。
さらに、これは記憶が正しければという話になって申し訳ないのだが……。アヤからほっぺにキスをされて家に帰った後に流していた曲がLou Leedの「Perfect Day」だったと思う。確か。
ほっぺにちゅーからのパフェクトデイ。
「平山さんほどの境地に達している人でも、日々享受している奥ゆかしい喜びだけでは足りないのか……」というちょっとしたがっかり感もある。
異性からの好意を「喜び」に換算することを否定したいわけではありません。実際、休日に通っていた小料理屋のママへの好意は、我々からすると"見せられるもの"ではなく"感じ取るもの"で、それはこの映画にマッチする「喜び」だったと思う。
アヤとのシーンでは、もう少しぼんやりとした好意の描き方を見たかったなあという願望です。
二つ目は、姪っ子や妹の登場。
後半では、平山の姪(めい)が家出を理由に、彼の家を訪ねる。数日を共にしながら、平山自身もその「小さな変化」を楽しんでいる様子が伺える。さらにその後には、姪を連れ戻しにきた母(つまり平山の妹)との会話シーンがある。
これらのシーンでは、平山の過去や複雑な家庭環境に少しだけ触れることになるのだが、ここが私にとっては違和感を覚えるポイントだった。
平山の興味深い生活をしばらく見てきた観客にとって、彼が過去にどのような人生を送ってきたのかは、問われなくても考えてしまうテーマだ。
なぜなら、先に述べたとおり、平山は「憧れの暮らし」という概念だから。理想に近づくために、その背景や道筋を知りたくなるのは自然なこと。
だからこそ作中で彼の過去は描かなくて良かったのではないかと思う。言い換えると、想像に委ねて欲しかった。
平山の暮らしを「憧れ」として描くのであれば、彼の過去は不要ではないだろうか。理想として昇華したものを前にした過去や背景というものは、悲しいかなそれを一般化してしまう。
知りたいけど、知りたくなかった。というのが個人的な気持ちである。
言及した「ほっぺにチュー」と「親族の登場」。この二つに共通するのは「生々しさ」だ。
小見出しで述べた「ぼんやり」は「憧れ」に。「くっきり」は「生々しさ」に置き換えることができる。それらのズレを強弱ではなく、不和として感じてしまったのはあくまで私の捉え方です。
今度は今度、今は今
この映画で「大きな事件」は起こらない。代わりに「小さな変化」がいくつか生じる。公式のあらすじでは「思いがけない出来事」という表現が登場するが、少しばかり大袈裟だと思う。
だから、この作品には明確な「起承転結」が存在しない。
大抵、物語の起承転結の中で主人公は何かしらの変化を起こす。考え方や、行動、生き方などさまざまだ。しかし平山は、映画が始まってから終わるまで、ずっと平山のままだ。そもそも彼が彼自身の変化を望んでいないのだから当たり前だ。
あのラストシーンで平山が何を考えていたかは、人によって解釈が分かれるだろうが、私はあくまで感情の変化であり、生き方に変化は起こらないだろうと思った。
『PERFECT DAYS』とは起承転結ではなく、喜怒哀楽を描いた作品であり、それはつまり多くの人にとっての人生そのもの。
作中に登場する「今度は今度、今は今」というセリフにあるように、作品としても平山さんの「今」を忍耐強く描くことで、もう少し新たな発見を生み出せたのではないかと思う。というのが違和感の正体でした。
色々言いましたが、映画の世界観はとても心地よく、役所さんの演技は本当に素晴らしかったです。『木』を読んでみたい。