津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

7月25日に「津島佑子の文学──未来へ向けて」のイベントがあるので、その前に何か読んでおこうと思い手に取った。
津島さんが亡くなって、もう8年になる。
津島さんの遺作となったこの本に、やっとたどり着いた。
さっそく津島さんが身に纏ったその悲しみに同期する。/

不慮の事故で幼い息子を亡くしたシングルマザーの「わたし」の現在の物語と、アイヌと和人との間に生まれた孤児チカ(チカップ)とチカが兄のように慕うジュリアンの漂流の物語(十七世紀)とが時空を超えて交互に綴られてゆく。
チカとジュリアンは、ジュリアンがマカオでパードレ(神父)になるため、マツマエからツガルへ、ツガルからナガサキへ、ナガサキからマカオへと渡って行く。
まるで、魚たちが回遊するように、鳥たちが渡って行くように。
一粒の種が海中でもまれ、漂流し、流れ着き、そして根づいていく。
世界の悲惨の中にも希望が息づいている物語だ。/

人は魚だ。
小さきものたちは大きなものたちに捕食され、棲家を追われ、蹴散らされる。
そして、海中を四方八方へと四散しては、混ざり合う。
純粋なものは消えゆくものだ。
残りゆくものは混血だ、雑種だ。
人は魚だ。/

人は鳥だ。
季節はめぐり、鳥は渡る。
餌を、新しい棲家を、繁殖地を求めて。
数百、数千、数万キロを渡って行く。
そして、つがいとなり、巣をつくり、子をつくり、やがて島をつくる。
チカップは鳥だ。/


【明るい灰色の空はとりとめなくひろがり、灰色の海も静かに平坦にひろがっていた。バスの窓からは、雲に隠された太陽の淡い光がひろびろとした空と海に溶けこみ、浜辺や人家の壁にまで、その光が染みいっているように見える。
バスは右側にオホーツク海を見ながら、ほぼまっすぐにつづく車道を進みつづけた。途中、道は海から少し離れるけれど、やがてまた、海岸線に寄り添う。ときどき強い風に吹き寄せられた雨のつぶが、ぱらぱらとバスの窓にぶつかってきた。】(「二〇一一年 オホーツク海」)/


【沖に向かい、ぐんぐん舟は突き進んでいく。月の光と無数の星のまたたきに海は照らされ、一面、藍色と銀色がせめぎ合う。ほかの色はなにも見えない。チカはジュリアンに抱きついたまま、夜の海にひろがる光を見つめていた。月と星の光に舟ごと吸い寄せられていくように感じる。艪の音と波の音が、風を受けてふくらむ帆に這いのぼっていく。ジュリアンも、ほかのひとも押し黙っていた。海上の風は冷たく、みな、むしろのなかに身を縮め、不安を呑みこみ、身動きもしない。
しばらくすると、波が変わり、舟の揺れが変わった。前に進むのではなく、上に下に舟が動いている。舟がふわりと持ちあがり、空が近づいたかと思うと、どこまでも沈んでいく。ひとつひとつの波が山のように盛りあがって、その山がつぎからつぎへと舟に迫ってくる。】(「一章 一六二〇年前後 日本海〜南シナ海」)/


【三月終わりごろのある日、あなたはひとり路線バスを降り、クシロ湿原のただなかに取り残される。灰色の空が低くひろがり、あなたの頭上をおおう。冷たい小雨が降りつづく。湿原はところどころに白い雪を残し、黄色く枯れた草をうねらせ、風に吹き飛ばされていく霧雨もはるばるとどこまでもひろがる。停留所の表示板でつぎのバスの時刻を確認してから、バスの車掌が教えてくれた牧場の建物に向かって歩きはじめる。建物はほかに一軒も見えないのだから、迷いようはない。】(「一九六七年 オホーツク海」)/


津島さんから届いたこの手紙は、大切にとっておいて何度も読み返してみたい。

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