『中国現代文学1』
二〇〇八年四月に出版された本誌の創刊号である。
昨年末のひつじ書房の大特価感謝セールの際に、このシリーズの未入手本をまとめ買いしたが、そのとき創刊号だけは入手できなかった。それが今回入手できたので、さっそく手に取った。
毎年六月は、一九八九年六月四日の「六四天安門事件」を記念して、僕は中国関連の本を読むことにしているのだ。/
残雪「阿娥(アーウー)」:
残雪にしては、思いの外読み易い。残雪版「青の時代」か?/
阿娥という謎めいた少女が出て来る。
この少女、なんだか僕には作者である残雪自身を彷彿とさせて仕方がないのだ。/
【ぼくらは庭で縄跳びをしていた。(略)跳びはじめてまもなく阿娥がころんだ。ゆっくりと倒れて顔が真っ青だ。子どもたちはあわててとりかこみ、だれかが阿娥の父親を呼んできた。(略)
彼は阿娥の前までくると上半身を抱きかかえて帰っていったが、下半身のほうは地面を引きずっていた。
ー中略ー
小正という子が阿娥に会いに行きたくないかというので、僕はわくわくしながら後について古い家々のあいだを縫っていった。そして最後にとあるおんぼろの古い木造家屋の前で止まった。小正はぼくを肩車に乗せて高い窓の前にいき、中をのぞかせてくれた。見ると部屋のまんなかにガラスのケースがあって、中に阿娥が寝ている。眠ってはおらず、ときどき動いたりあくびをしたりしている。(略)
「どうしてあんなところに寝ているんだろう?」(略)
「病気だからさ、あれは隔離室だ」(略)「人に伝染しないようにというのじゃなくて、自分を隔離しないといけないんだ。さもないと明日の生命もない」】/
【焦眉の急は、阿娥の素性、つまり一切のことの真相をはっきりさせることだった。ぼくは単刀直入に、阿娥はぼくの姉さんなのかと母にたずねた。】/
残雪は1953年湖南省長沙生まれだ。
彼女はぼくの姉さんだったのだ。/
張小波「まことしやかに」:
読み難いというわけではないのだが、どうにも取りつく島がない感じだ。
入れ子構造とのことだが、一種のモダニズム文学だろうか?
いずれにしろ、こんな所でつまづいているようでは、残雪山はまだまだ遥かかなただ。
溺れる者は藁をもつかむということで、かろうじて次の文章だけが脳裏に残った。/
【だから私はいったのだ。一九八×年※を忘れてはならないと。もちろん頓馬か犬でない限り誰も忘れることはできない。なぜならちょうどこの年は、たくさんの猛り狂った者たちが家路を忘れ、ついにはその大多数が荒野で遠吠えする狼と化したからだ。】/
※一九八×年:
雑誌掲載時には、「一九八九年」となっていた。/
中国ではいまだに、「八九年」と「六月四日」はタブーなのだ。
どうしても、土中に埋めてしまわなければならない何かがあるのだろう。
僕は、これからも中国現代文学を読み続けるだろう。
砂は、絶えず掻き出していなければ、全てが埋もれてしまうのだから。/