『荒川洋治詩集』(思潮社:新鋭詩人シリーズ2/1978年)

そうそう、これが学生の頃、本屋で「現代詩手帖」を手にしたときに僕が出会った拒否だ。
あなたには「詩的感性」が欠けています。
あなたは現代詩「界」のメンバーではありません。
水没した車の窓ガラスを内側から叩き割るのに最適だった1972年の「現代詩手帖」。
だが、何度門前払いを食らっても、「謎」が僕を吸い寄せる。/


【妻はしきりに河の名をきいた。肌のぬくみを引きわけて、わたしたちはすすむ。 

みずはながれる、さみしい武勲にねむる岸を著(つ)けて。これきりの眼の数でこの瑞の国を過ぎるのはつらい。 

ときにひかりの離宮をぬき、清明なシラブルを吐いて、なおふるえる向きに。だがこの水のような移りは決して、いきるものにしみわたることなく、また即ぐにはそれを河とは呼ばぬものだと。 

妻には告げて。稚(わか)い大陸を、半歳のみどりを。息はそのさきざきを知行の風にはらわれて、あおくゆれるのはむねのしろい水だ。】(「水駅」より。)/


【わたしたちはいま、「散文化」という段階的な危険をかかえてまで、技術とふたりきりになることが必要なのである。「キレイゴト」志向にいっそうの拍車をかけるものとして、先向世代(原文ママ)は、まるで他人事のように眉をしかめるにちがいない。しかしわたしは「感心」をおおもとに据えるような受授の場に、詩を、売りわたしたくはないのである。技術への押しこまれ方を見たいのだ。脱ぎながら、肉感へいくども舞いおりながら、わが身を押しこめる技術の魔的な後背を直視する。その過程でこそわたしはみずからの「生」を練るものでありたい。スキャットなど歌うものか。〈技術の威嚇・現代詩手帖五十二年十月号〉】(清水昶「荒川洋治について」)/


青年期に陥りがちな原理主義だろうか?
とにかく、僕が知っている現代詩は何かかたいものだ。

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