アントン・チェーホフ『チェーホフ小説選』
短篇29篇を収録。
チェーホフは戯曲を少しだけ読んだことがあったものの、小説のほうは初読だったが、ビターなテイストが堪らない。
癖になりそうだ。
沼野先生のチェーホフ論『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』も、読んでみたい。/
「ふさぎの虫」:
息子の死のことを誰かに聞いてもらいたいが、誰にも聞いてはもらえぬ辻橇屋の老人。ラストは、フローベールの「純な人」を思い出す。/
「アガーフィヤ」:
ゴンチャロフの『オブローモフ』を待つまでもなく、いきなりなまけもののサーフカの登場だ。ひょっとして、ロシアにはこういう輩が沢山いて、曲がりなりにも市民権を得ていたりするのだろうか?/
「聖夜」:
【「(前段略)奇跡者ニコライの讃美歌は、(略)こういうぐあいです。(略)肝心なのは聖者伝でもなく、他の讃美歌との調和でもなく、美しさ、快さにあるのですからね。すべてが端正に、簡潔に、しかも綿密でなければならない。どの行にも、しなやかさ、やさしさ、やわらかさがなくてはならず、どの言葉も、ぞんざいな、粗い、そぐわないものであってはならない。祈りをあげる者が思わず心で喜び、悲しみ、理性で震えおののくように書かなくてはならない。(以下略)」】/
この部分、僕には、まるでチェーホフ先生の創作術を語っているようにも聞こえる。
もちろん、チェーホフ先生がこんなに最初から種明かしをするはずもないのだが。/
「敵」:
【不幸な人間たちは、エゴイスチックで、悪意がこもっていて、不公平で酷薄で、愚か者にもまして互いを理解しあう力に欠けているものだ。不幸は人を結びつけるどころか、むしろ離反させるもので、同じような悲しみで結ばれなければならぬときでさえ、比較的満ち足りた人びとのあいだでよりも、はるかに多くの不公平や残酷なことがおこなわれるものだ。】/
ぼんやり読んでいると、突然、この文章が僕を刺した。なんだか身に覚えがあるのだ。/
「曠野」:
ロシアの曠野を描くチェーホフの筆のやわらかさ。ロシアの自然に対するチェーホフの愛を感じる。/
【(前段略)たちまち広い平野全体が朝のほのぐらさをかなぐり捨てて、にこりとほほえみ、朝露をきらめかせた。
刈りとられた裸麦、丈の高い雑草、たかとうだい、野生の麻ーー暑さのために黒ずみ、赤茶け、枯れかけていたあらゆるものが、いまや朝露に洗われ、陽に愛撫されて、ふたたび咲きだそうとしてよみがえった。街道の上には海雀が楽しげに鳴きながら飛びかい、くさむらでは畑栗鼠(はたりす)が鳴きかわし、どこか遠く左のほうで田鳧(たげり)が鳴いていた。馬車に驚いた鷓鴣(しゃこ)の群れが羽ばたいて飛びたち、「トゥルー」というやさしい声をたてながら丘のほうへ飛んで行く。きりぎりす、こおろぎ、かみきりむし、けらなどが、くさむらで軋むような単調な音楽を奏ではじめた。】/
作中に「小ロシア人」、「大ロシア人」という言葉が登場する。
「小ロシア」というのは、ウィキペディアによると、ウクライナの旧称のようだ。
どうも人間という奴は、太古の昔から獣たちと全く同じ様に、大きいものが小さいものを捕食して生き長らえているようだ。
もちろん、ミュンヘン会談からわが国の小学校の教室に至るまで遍く立ちこめた空気を見れば明らかなように、周りのものはみな高みの見物を決め込むに違いない。/
「退屈な話」:
【「どうもこのハリコフの町はきらいだね」と、わたしが口を切る。「あんまり灰いろすぎるよ。なんだか灰いろの町だね」】/
「六号室」:
ある精神科病院の院長の話。俗世間に嫌悪感を抱いていた院長は、ある日、六号室の一人の患者と議論し、彼の知性に感嘆する。いつしか、院長は彼の病室に
入り浸るようになる。
極めて興味深い。魅入られるように読んだ。/
【この地上に、その根源に醜いものを持たぬような美しいものは何ひとつありえないのだ。】/
「ロスチャイルドのヴァイオリン」:
どこか井伏鱒二『山椒魚』を思わせる愛すべき小品。/
「谷間」:
村で食料品店を営む老人には二人の息子がいる。
長男は警察に勤めていて普段家にはおらず、耳の遠い次男が店を手伝っている。
次男の嫁は器量良しで働き者、おまけに商才まである。
その後、老人も器量良しの朗らかな女を後添えにもらう。
やがて、長男にも嫁をということになり、貧しい家からやはり器量良しの娘を嫁にもらう。
その結婚式の日から物語は暗転する。
この短篇集の中では、「六号室」と並んで、異彩を放つほど陰惨な物語。
だが、それゆえに引き込まれてしまって、目を離すことができない。
でも、そこはチェーホフ、そんな物語にあってさえ、ラストには一条の光を感じる。/