ドラマ『荒地の恋』(渡邊孝好監督)
前回見ようとしたときは観られなかった。
たぶん、鈴木京香があまり好きじゃないからかもしれない。
だいぶ前に、原作を読もうとして、冒頭シーンで放り出したことがある。
そのシーンというのは、ドラマの登場人物で言うと、詩人の三田村貴一(田村隆一)が、詩人仲間の北沢太郎(北村太郎)に、自分が依頼された翻訳を共訳ということにして訳して欲しいと依頼するシーンだ。
本は、F先生からもらったものだったが、僕は田村の行動に腹を立てて、それっきり読まずに売ってしまった。(おいおい、田村先生よう、詩人てのは、サルトルが『文学とは何か』で書いてるように「敗北を選んだ者」なんだぜ。詩人名乗ってるくせに、銭儲けに走るんじゃねえよ!)
F先生は田村に憤慨する僕を世間知らずと笑っていたが、僕にはどうしても許せなかった。
田村隆一といえば、世評では一応カッコいい詩人で通っている。
その田村が、裏でこんな自民党の大物議員のような世間ずれした小汚いことをやっているというのはなんだ。
翻訳がその調子だとすれば、本業の詩作の方だって、自分の名前で無名の若手に書かせて、印税は折半だなどとやっていないという保証はどこにもないだろう。
だから、今回もたぶん観られないだろうと思っていたのだが、今回はなぜか観ることができた。
それというのは、演出や俳優陣の演技が明らかにお子様ランチのそれではなかったからだ。
それもそのはずで、お子様たちが今頃「荒地」の詩人などに興味を持つわけもない。
そんなものに寄ってくるのは、もう死んだ奴か死にかけた老いぼれぐらいのものだろう。
という訳でなんとか無事に観られたのだが、僕にはどうしてもわからなかった。
三田村は若い女の子たちと遊び惚けていて、細君のことを省みようともしない。
そこで、三田村夫人は北沢の方にすり寄ってくる。北沢も妻とはすきま風で魚心あれば水心、残された北沢夫人は半狂乱だ。
僕は、恋愛音痴なので、この自己中な人たちの心がどうしても分からないのだ。
なぜ、彼らには配偶者を裏切る権利があるのだろうか?
詩人だから?芸術家だから?凡人とは違う優れた人間だから?
もちろん、破綻した結婚があるのは分かるし、そういう場合なら僕も理解できるが、彼らの家庭はそこまでとは思えない。
詩人だから、常にミューズが必要なのだろうか?
ラカンが「欲望は、他者の欲望である。」と言っているらしい(ラカンはさっぱり分からないので、『エクリ』も何もかもみんな売ってしまった。)が、だとすれば彼らの欲望は誰の欲望だろうか。
北沢と三田村夫人は分かりやすい。
どちらも人のものだから欲したのだろう。
だが、三田村の欲望はどこから来るのだろうか?
それはきっと、詩人の、無頼派の、家宅の人の欲望なのではないか?
詩人に、無頼派に、家宅の人になりたいから、そういうフリをしているのではないか?
そんなもの僕には分からない。
もちろん、我が心木石にあらずだから、僕だって人を好きになることはあるが、だからといって相棒を不幸にする権利は僕にはない。(僕のようなものを拾ってくれた一宿一飯の恩義がある。)
女を夜叉にするのは男だ。
僕は相棒を夜叉にはしたくない。
いわゆる「小心者のすずの兵隊」という奴だ。(車中で出会った行きずりの女に笑われた三四郎のようなものか。)
僕の望みは、フローベール「純な心」のフェリシテの、漱石『門』の宗助と御米の幸福であり、はたから見れば一見不幸と見紛うようなものでしかない。
詩人だから、芸術家だから、書くためには家族を不幸にしても許されるのか?
どうしても、僕には分からない。
まあ、恋愛の才能が無いのだと思えばそうかも知れない。
そんなこんなで、最後まで演技や演出にさほどの違和感なく(根本的な違和感はあったものの)観ることができたのは、国内ドラマではずいぶん久しぶりのことだ(というか、普段ほとんど観ていないのだが…)。
感心したついでに、ねじめ正一の原作も読んでみようかと思う。/
そう言えば、昔、「現代詩文庫」の『田村隆一詩集』を読んだら、最後の方に、田村先生が日頃青汁を御愛飲されているということが書かれていて、それ以来、先生の詩集を手に取るのを控えている。
最後に、天国の先生に一言。
「田村先生よう!ダンディ詩人も青汁飲むようになっちゃおしめえよ!」
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