小池喜孝『常紋トンネル』

NHKで放送された「こころの時代〜宗教・人生〜殉難者の祈り」を観て、本書を手に取った。
番組は北海道開拓の過酷な労働現場で亡くなった「殉難者」たちのことを描いたものだった。/


「殉難者」には囚人と「タコ」があるが、本書では「タコ」について掘り下げている。/


【常紋トンネルから、留辺蘂(るべしべ)側に一キロほどくだったところ(略)に、なんの変哲もない地蔵さまがある。その地蔵さまの横の標札には、次のように書かれている。 
 歓和地蔵建立の由来 
湧別線工事中最大の難工事とされていた常紋ずい道(五〇七米)は、(略)三年の年月をかけて、(略)完成しました。工事は本州方面から募集してきた労務者を飯場に収容し、通称タコと呼ばれた者によって行なわれた。 
労務者は人権を無視された苛酷な取扱いをうけ、粗食と重労働で病気にかかる者も多く、医薬も与えられず、体罰を加える。そして使役不能とみたものは、(略)監禁し、死者はそのまま(略)、大きな穴の中へ投入してしまうという、残虐非道なことが、公然と行なわれたといわれている。このずい道工事中、百数十人の若者が犠牲となり、ずい道附近に埋められております。】/


【鉄道の架橋・トンネル工事に、いわゆる人柱を立てた話しは、全国各地にある。北海道の場合、人柱はタコ労働者にきまっていた。オホーツク地域だけでも、常紋トンネルのほか、常呂川、湧別川、斜里町越川の鉄橋が有名である。】/


◯タコ部屋制度の歴史:
生成期:一八九〇 北炭室蘭・夕張線でタコ部屋はじまる/
    一八九四 囚人の外役労働廃止/
(囚人の外役労働廃止に伴い、拘禁・強制労働のでタコ部屋が鉄道工事に発生し、以後、鉄道・道路・港湾・用水溝工事に従事。)/

確立期:一九一〇 「第一期拓殖計画」実施/
(畑地と原野の水田化が灌漑用水溝の国庫補助と第一期拓殖計画で推進され、タコ労働者の需要最盛期をむかえる。)/

再建期:一九三九 朝鮮人強制連行・労働はじまる/
    一九四四 中国で「労工狩り」はじまる/

消滅期:一九四六 米軍政部、タコ部屋解散を命令/


◯土工夫の雇入・死亡・逃走・解雇状況(道庁警察部調査):
1918年:雇入人員(17,888)、死亡(484)、死亡率(2.7%)、逃走(6,228)、逃走率(34.8%)、疾病(2,653)。/

おや、死亡率が意外に少ないと思いしが、死亡者を警察に届けると、検屍や事情聴取が煩雑なため、特にリンチによる死亡などは逃亡として届ける場合が多かったので、逃走者数の何割かは死亡者だと見られるとのこと。/


◯中国人・朝鮮人の強制連行・労働:
日本に強制連行され、一三四の事業所で強制労働させられた中国人は三万七五二四人。うち死者数は六八三〇人で、一八%に及ぶ。
朝鮮人強制連行・労働者は、総数も死者数も確認されていないが、朝鮮人大学校の琴氏は、その総数を一五一万九一四二人と推計している。/


【直接労働力を持たない土建資本と中間請負業者は、産業資本としてよりも、ときに高利貸資本的性格をあらわにした。下請け業者から吸い上げるピンハネがそれである。元請けが下請けに行うピンハネを、下請けは孫請けに、孫請けは曽孫請けに行ない、末端の部屋ではタコからピンハネを行なった。そのピンハネは労働収奪にとどまらず、ときに生命をも収奪した。】/

【未開の原始林や沼沢地には蚊やアブやブヨが多い。『日本土木建設業史』(一九七一年刊)はこう記す。
「逃亡者を捕えてこらしめに裸にして後手にしばり上げ、樹木にくくりつけて放置し、暁方行って見たところ全身蓑を着せたように蚊に蚊がつながってたかり、紅に染って絶命していたというような伝説めいた話もある」】/


【隆弘尼は、仏壇の前にピタリと着座して話された。
「小池先生、この地方のどこかの広場に、銅像を建てたいですね、三人の群像なのです。ひとりはツルハシを振りかぶった逞しい身体の青年です。あとの二人は、モッコをかついでいます。ツルハシを持った青年は、下半身に腰巻か下帯をしています。モッコをかつぐ二人の脚は、鎖でしばられています」 
隆弘尼は、この地方の開拓功労者として、囚人とタコの銅像を建てようというのである。】/

徴用工の像を建てるべきなのは、韓国人や朝鮮人などではなく、誰よりもまず日本人なのかも知れない。

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