クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

これはひどい!恥ずかしいほどの出来栄えだが、ええい、ままよ!
我が身の無能はや紛れなし!/

立教大学でのイベント 「20世紀フランス文学の検証—ミレイユ・カル=グリュベールの文学批評を中心にヌーヴォー・ロマンとその後の系譜を追う」に参加するので、これを機会に読んでみた。

【生きるすべを学ぶつもりでいたが、じつは死に方を学んでいたのだった。 レオナルド・ダ・ヴィンチ】

冒頭のエピグラフにいきなり心を持っていかれてしまった。
まるで、僕の人生を言い当てられてしまったようでぐさりと突き刺さった。/

実のところタイミングは最悪だった。
例年この時期はうつ状態に落ち込んでしまうのだが、案の定今年も引きこもりがちな毎日からフレイル様の症状を呈し、認知症への道を一歩一歩確実に歩み始めていた。
そんな時によりによってクロード・シモンとは。
学生時代からヌーヴォー・ロマンを読んできたのに、なぜかシモンは先日読んだ『路面電車』が初読だったが、それは若い頃書店で本作品や『ファルサロスの戦い』を立ち読みしたときのあの極端に句読点の少ない読み難い文章が、いまだにシモン恐るべしとの印象を脳裏に刻印していたためなのだろう。
日頃注意力散漫な僕は、行替えのタイミングでうっかりするとまた元の行の頭に戻ってしまったりするので、一瞬たりとも気が抜けない。
読み始めてしばらくは、読んでいる行に栞を添えながら読むなどの操作が必要だった。
ページをめくればたちどころに没入できた昔日ならばまだしも、フレイルごときがみだりに分け入るにはあまりに畏れ多い。/


今回の立教のイベントで基調講演を行うミレイユ・カル=グリュベール氏は、『クロ-ド・シモン-書くことに捧げた人生』の著者だ。
そうだ、本書を今回のイベントへの入場券にしよう!
本書が読めたなら、もう一度ヌーヴォー・ロマンの森へ分け入ってみよう。
もし、読めなかったならば、今回のイベントは僕には少々敷居が高すぎるのかも知れない。/


括弧書きの多用などによってあまりに文章が複雑に錯綜し連綿と蛇行しているため、集中しなければ読むことができない。
そのことは読む者を読書に集中させるという戦略としては成功しているが、その反面文章や語句からイメージを喚起されて、様々な雑念や妄想の寄り道に遊ぶという楽しみを奪っている。
また、戦争、競馬、セックスなどにまつわる種々のイメージが描き込まれているが、それらのイメージが乱反射して互いに干渉しまっており、どれか一つのイメージが鮮やかに像を結ぶというには至らない。/


二百五十ページ付近、描写がようやくクライマックスに差しかかるのがセックスシーンとはご愛嬌。
シモン先生、しもンネタですかい?
退役変人の僕には、もっと他のメニューも見せてほしかった。/


もちろん、以上の感想は、単にしばらく読書から離れていた僕の読みがシモンの文章に歯が立たなかったという違和感を表しているに過ぎないのかも知れないが、それでもプルーストや安部公房や目取真俊の文章には、ものの見事に生の象徴と化したイメージが燦然と光を放っていたような気がするのだ。/


【この小説もロブ=グリエらの作品とおなじように、読者のめいめいが一字一句の隅々にまで注意を払って、(略)通常、小説の内容となっている筋や性格や因果関係を自分で臆測するよりしかたがない、いわば《結末のない推理小説》なのである。すでに出来あがった《小説》ではなく、これから作るべき《小説》の材料なのである。そこから引き出される小説は、各人の勘や熟練度や明晰度の差異によって、各人の世界観とおなじ程度に多種多様であろう。】(「解説」)/

シモン先生、平岡先生、すみません。こんなん出来てしまいやした。
どうやら、イベントで研究者の方々の御高説を謹んで拝聴した方が良さそうだ。/


登場人物の一人(副主人公クラス)の名前が「ブルム」であり、「寝取られ亭主」(ブルムではないが)も登場し、本書終盤(275ページの終わりから4行目)にはジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』のモリーが発する“yes”に相当する声も聞かれるが(同じ文脈にはギリシャも登場している。)、ひょっとしてこの小説、『ユリシーズ』へのオマージュ作品だろうか?/


【そして彼の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするようにしゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者のいうところによれば人間ば他人の所有しているものを横どりするのに二つの手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者すなわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階を通過し、(略)それぞれ一度はヨーロッパを兵火と流血のちまたと化しており、いずれにしろ戦争も商業もどちらも人間の貪婪さの表現にすぎず、その貪婪さ自体祖先伝来の飢えと死との恐怖から導き出すだされた結果で、そう考えれば殺人盗み略奪も売買ものじっさいはおなじただひとつのもの、ただの単純な欲求自分のこと安全を保ちたいという欲求にすぎず、】

追記:『ユリシーズ』との類似点を探していたら、もう一つ思い当たった。
父の自殺である。『ユリシーズ』ではブルームの父が服毒自殺を遂げているが、この物語においても、

《 「私(ジョルジュ)」の母方の先祖レシャックは、ルソーの思想の影響を受け自ら貴族の称号“ド”を捨てて1789年の革命に参加したものの、夢を破られ、ピストル自殺する。しかし、実は妻を寝取られた上にその愛人に殺されたのではないか、と噂されている。》(増田晴美{クロード・シモン『フランドルへの道』における「 私」と「二つの“histoire”」/明治大学大学院紀要 第30集  1993.2〕

とある。
似ていると思えばますます似てくるのである。

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