ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』

読んでいると、なんとなくピエール・ブルデューの『世界の悲惨』を思い出す。

《私は極端に不幸な人の例をわざわざ選んだりはしていません。むしろあまりにドラマチックな例は外しました。というのも、『世界の悲惨』の基本的なコンセプトは、社会は表立って表現されることのない苦しみであふれている、その声にならない苦しみに耳を傾けようというものだからです。》(ピエール・ブルデュー『世界の悲惨』)/

佐藤泰志『海炭市叙景』で描かれる人々ほど典型的な悲惨ではないが、それでも厳然としてそこにあるそれぞれの悲惨。/


「写し」:
いきなり刺さった。
以前、高松雄一訳『ダブリンの市民』で読んだときには、まったく印象に残らなかったが。
ブル・シット・ジョブの登場である。
一日中コピー機にへばりついていた、昔日の日々がフラッシュ・バックする。
酒を飲んで家に帰った男が子供に当たり散らすところは、飲んでは暴れていた「ペコロスの母に会いに行く」の父親の姿を思い出す。
だが、それはまた、かつての僕自身の姿でもあった。/

【ーーファリントン?これはどういうつもりだ?なんでいつも文句ばかり言わせる?聞かせてもらいたいね、バドリーとカーワンのあの契約書の写しをまだでかしてないわけを?四時までには用意しろと言ったはずだ。(略)男は下の事務室へ戻り、再び机に向った。書きかけの文言をしげしげ見つめる。(略)男は(略)写しの仕上げにかかった。しかし頭はすっきりしないし、心は酒場のきらめく明りと騒音へさまよって行く。(略)せっせと写しに励んだが、時計が五時を打ったとき、まだ十四枚も書き残りがあった。ちくしょう!とうてい間に合いやしない。(略)
男は名前を二度呼ばれてからやっと返事をした。(略)アレイン氏がひとしきり罵詈雑言を吐いてから、手紙が二通足りないと言った。男はそんなのは知りません、ちゃんと写しは作りましたと返答した。(略)
ーーもう二通の手紙なんて知りませんねえ、と、男は間抜けみたいに言った。
(略)
ーーこの無礼者!この悪党!お前なんかクビにしてやる!覚悟しとけ!(略)】


【横の入口から中へ入ると、キッチンには誰もいないし、キッチン暖炉の火も消えかけている。男は二階へどなった。
(略)
小さな男の子が階段を駆け下りてきた。(略)
ーーおれの食うものは?
ーー僕が今‥‥‥あっためるから、父ちゃん、と、小さな少年は言った。男は烈火のごとく立ち上がり、暖炉を指さした。
ーーその火でか!火を消しちまってるだろが!いいか、二度とこんなことをしたら承知しないぞ!
男は戸口へ一歩踏み出して、その陰に立てかけてあるステッキをひっつかんだ。ーー暖炉を消しちまったらどうなるか教えてやる!と言って、腕を存分に振りまわせるように袖をまくり上げた。
小さな少年はいやだ、父ちゃん!と叫び、泣きべそをかきながらテーブルのまわりを逃げる。しかし男は追いかけて、上着をつかまえた。(略)
ーーさあ、また火を消してみろ!と、男は言い、ステッキで激しく少年を打つ。これをくらえ、ガキめ!
腿にステッキがくい込んで、少年は苦痛の悲鳴をあげた。両手を高く上げて握り合せ、声は恐怖にふるえる。
いや、父ちゃん!と、叫んだ。ぶたないで、父ちゃん!僕‥‥‥僕がアヴェ・マリアのお祈りしてあげるから‥‥‥アヴェ・マリアのお祈りしてあげるから、父ちゃん、ぶたないでったら‥‥‥アヴェ・マリアのお祈りしてあげるから‥‥‥。】/

この作品に出会えただけで、この短編集を読んだ甲斐があった。
僕は、この作品に「エピファニー(顕現)」を見たような気がする。
この短篇を、「#短編を10作品選んで史上最高の短編集を作れ」のリストに加えたい。

それにしても、高松訳の『ダブリンの市民』を読んだときに、なぜこの作品の素晴らしさに気がつかなかったのだろうか?
ひょっとして、注を追いかけることに気を取られてしまっていたのだろうか。
この柳瀬訳の『ダブリナーズ』は、同じ訳者の『ユリシーズ』と同じで注がない。
木を見て森を見ない僕には、注があんまり無い方がストーリーや話の流れが頭に入って来やすいような気がする。
丸谷・永川・高松訳の『ユリシーズ』を、今度は注を無視して読んでみようかな。

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