アンドレイ・プラトーノフ『ポトゥダニ川 プラトーノフ短編集』
社会の底辺に生きる貧しい人々を描いた「ユーシカ」と「セミョーンーー過ぎた時代の物語ーー」のニ篇が心に残った。
「ユーシカ」:
これは僕の物語だ。
またひとつ僕の物語を見つけた。
◯ 地の中を 這いずりまわり 這い出でて 命のかぎり 鳴けよ爺蝉/
◯救い難き とうに死すべき 愚者なれど たった二人の 女に生かさる/
◯ 無能にて 殴られ蹴られ 笑われて 小さきものに そっと寄り添う/
【遠い昔、古い時代のこと。私たちの通りに、見たところひどく年老いたひとりの男が住んでいた。男はモスクワに通じる大きな街道沿いの鍛冶場で働いていたが、目があまりよく見えないうえに腕っぷしも弱かったので、親方の下働きとして雑用を手伝っていた。(略)男はエフィームという名前だったが、誰もがユーシカと呼んでいた。背は低くやせっぽちで、皺だらけの顔にはあごひげや頰ひげの代わりに、灰色の毛がぱらぱらとまばらに生えていた。目は盲人みたいに白っぽくいつもうるんでいて、涙が乾かないで溜まっているように見えた。】/
「たくさんの面白いことについての話」:
前半は社会主義革命への讃歌である。
もしも、五十年前にこれを読んだなら、僕も感動したのかも知れない。
だが、富農撲滅運動(1917〜33)、ホロドモール(1932〜33)、カチンの森(1940)、プラハの春(1968)、天安門事件(1989)を見て来た眼には白々しく聴こえるばかりだ。
科学的社会主義と言えば聞こえはいいが、「科学」ならば疑問を持つことや議論することが尊重されてしかるべきなのに、少数意見や反対派を弾圧し、大粛清を行ったりするのは、まず第一に信ずることが求められ、疑うことが白眼視される「宗教」だからだろう。
「宗教」は僕にとって「バカの壁」になっているので、後半のストーリーはほとんど頭に入って来なかった。/
【「花嫁を通して僕らは世界の声を聞く」イワンはひとり言を言った。「「花嫁を通して僕らはあらゆるものと兄弟になれる、太陽とも、星たちとも。労働も、憎しみも、争いも不要になる。見渡すかぎり兄弟愛で満たされる‥‥‥星々も獣たちも、草も人間も、すべてのものが兄弟になる‥‥‥」】/
「花嫁」は社会主義(共産主義)のように聞こえるが、まさにその名の下に、上述の数々の殺戮や、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニアなどへの侵攻・併合が行われ、数多の強制収容所が造られ、血の粛清が行われたのだ。/
【「(略)僕は家をもっと改良するよ、みんなが一緒に住めるように。これからは獣と人間の区別はなくなるんだ、心身共に近しい、ほんものの仲間になるんだ。いいかい、獣たちは僕らと同じボリシェヴィキなんだよ、人間がしゃべれと言わないから黙っているだけなんだ。もうすぐ獣たちが言葉を話し、礼儀をわきまえ、分別を持つ時がやってくる‥‥‥。(略)僕たち人間は、生きとし生けるもの、動くものをみんな、人間にしてやる義務がある、(略)」】/
なんだか、第二次世界大戦開戦後に、スターリンが東欧諸国に侵攻した時の演説のように聞こえてならない。
また、社会主義を外見がナチズムそっくりのユーラシア主義に置き換えれば、プーチンのウクライナ侵攻に際しての演説にだって聞こえなくもない。
ただし、最後の部分は、《僕たち獣は、生きとし生けるもの、動くものをみんな、獣にしてやる義務がある》となるであろうことは無論だが。/
訳者の正村氏が、「ポトゥダニ川」をプラトーノフの創作の最高峰ではないかと書いているが、僕にはそこまでとは感じられなかった。
「たくさんの面白いことについての話」には、『チェヴェングール』と同じモチーフがたくさん登場しているとのことだが、既にロシアを憎み始めてしまっている僕に、はたして『チェヴェングール』を充分に味わうことができるかどうかはなはだ疑問だ。