高遠弘美『プルースト研究―言葉の森のなかへ』

本書は、論文集という性格上、かなり読み手を選ぶものとなっている。
例えば、プルーストや他の作家の仏語原文の引用箇所に、必ずしも日本語訳が付されていないことなどだ。
そこへもってきて、こちらはフランス語が分かりもしないのに無理矢理読んでいるので、理解出来たのは、まあ半分かそこいらだと思う。
まさに、僕のような半可通にとってはアベレージだが。
何を読んだとて、おそらく似たようなものだろう。
「城」の周りをぐるぐる回っているようなものか。
それでも、ときどき鋭い、示唆を与えてくれるような文章に出会うことがあるのが、論文を読む楽しみだ。/


2.「プルーストの「引用」について」:
【スワンは若き話者にとって芸術への最初の水先案内人であった。それゆえ話者はスワンのうちにオルペウスの幻影を垣間見ることになるのだが、しかしスワンはついにオルペウスではあり得なかった。いや、ありつづけることはできなかった。すなわち、スワンの眼を芸術からも、現実からもそらすことになった、スワンの恋のために。(略)
その果てにスワンは、最愛の女性としてのオデットを永久に喪い、しかもすでに幻にすぎない実在するオデットとともにこの世で暮らすことの報いを受けて、失墜してゆくのである。(略)
クロード=エドマンド・マニー(略)の次の言葉はその間の事情を端的に語ったものにほかならない。

(原文略)

(スワンはいわばマルセルの裏地であり、転写刷である。あるいは、魂の救いのないマルセルである)】/


4.「プルーストの詩篇を読む」:
これは、どうしても訳文が読みたかった。
まあ、「楽しみと日々」に入っていることが分かっただけでも収穫だが。/


5.「プルースト、そのポリフォニックな世界」:
最近、もっぱらネット書店で本を購入することの多くなってしまった僕には、「第一章 冒頭の一句または小説の誕生」の注に掲げられている『パルムの僧院』、『感情教育』、『戦争と平和』、『ロリータ』など18作品の小説の冒頭の一節を読むのがとても楽しかった。
まるで、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画「ニュー・シネマ・パラダイス」におけるラストのキスシーン・ショットの連続を観ているようだった。/


【もとより速読などは不可能である。それをひもとく限り、読み手の生の時間が干からびることはなく、反対にかぎりない充足に向かわずにはいない小説。それが『失われた時を求めて』である。
繰り返して言えば、『失われた時を求めて』はいわば読書の特権的時間を保証している特権的な書物のひとつにほかならない。このような作品がある以上、再読しないわけにはいかないではないか。】/


8.「『千一夜物語』新・仏訳について」:

【文学、あるいは文学研究において自らの凡庸さを自覚してしまった凡庸なる者はどうふるまうべきなのか。】

僕は今まで論文の中で、このようなラディカルな問いに出会ったことはなかった。
釈迦に説法のような気もするが、人間は知らなければ知らないほど自分は知っていると思うのであり、知れば知るほど自分が知らないことに気づくのではないだろうか?/

高遠先生のこの問いを、僕自身にも当てはめてみたい。
世の中には、素晴らしいレビューが読み切れないほどたくさんあるのに、なぜ僕は下手くそな感想文などを書くのだろうか?
そこに、意味はあるんか?
僕は、すべての読書は翻訳のようなものではないかと思う。
例え日本語で書かれていようとも、その作品を人は自らの知識・経験・感覚という辞書を用いて読んでいるのではないか?
だとすれば、一人一人の知識・経験・感覚はすべて異なっているのだから、その辞書を用いた読みもまたそれぞれに異なってくるのではないか。
輝かしい人生をおくってきた者と、悲惨な人生を過ごしてきた者とでは、同じ本を読んでも見えて来る世界が違うのだ。
それゆえ、僕のような者の下手くそな感想文であっても、それなりの意味はあるように思える。/


高遠先生の文章を読むと、いつもその真摯さにうたれる。
そして、だからこそ、また先生の本が読みたくなってしまうのだ。/


上記以外の収録論文:

1.「プルーストのポリセミーをどう読むかーある一節をめぐる考察ー」/

3.「「失われた時」とは何か」/

6.「プルーストと文学の伝統」/

7.「『千一夜物語』と『失われた時を求めて』の類似性/

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