墨家とはなにか②──謎に包まれた墨家の開祖・墨翟と学派の出発
歴史雑記099
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はじめに
墨家について語るときに、常に問題となるのが開祖の伝記史料の貧弱さである。
儒家の開祖・孔子については、『左伝』がその生没年を記すし、孔子死去ののちさほど間をおかずに始まったと考えられる『論語』編纂作業が、その人となりを我々に伝えてくれる。
これらを核として、『史記』は孔子世家を立てることができたわけである。
いっぽうの墨家はというと、孟子荀卿列伝の末尾にわずかに以下の記述を見出せるにすぎない。
蓋墨翟、宋之大夫。善守禦、為節用。或曰并孔子時、或曰在其後。
思うに、墨翟は宋の大夫である。防衛に秀で、倹約につとめた。あるいは孔子と同時代の人であるといい、あるいはそれよりのちの人であるともいう。
前回の記事で紹介したように、「天下の顕学」であった墨家の開祖について、前漢武帝期にはすでにこの程度の情報しか得られなくなっていたことがわかる。
しかし、いまに生きる我々はこれで済ませてしまってはいけない。
今回は、墨子がいつ頃の人物であるのか、そして墨家はどのように学派として出発したのかについて、いささかの私見を述べてみたい。
墨子説話は信じられるか
現行『墨子』には、説話諸篇と呼ばれる5篇が採録されている。
すなわち、耕柱・貴義・公孟・魯問・公輸の各篇である。
これらは論者によっては「墨子生存中の事績をある程度伝えたもの」とされたり、あるいはもっと積極的に「墨家の『論語』である」とまで言い切る人もいる。
しかし、残念ながら私見によればこれらの諸篇の成立は『孟子』を遡らず、大半が前250年以降、戦国時代末期の墨家の認識を記したものと考えられる。
根拠は拙稿「墨子説話諸篇考」、「墨子救宋説話考」において歴史言語学的な手法を採り入れつつ詳しく述べたが、要約すると以下のようになる。
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