見出し画像

【歴史雑記】邪馬台国と夏王朝

 歴史雑記003

 この記事を書くにあたって、はじめに僕の基本的な立場というものを記しておきたい。
 それは、「文献の記述と考古的成果は、必ずしも整合的に理解される必要はない」というものである。
 この点を念頭に置いて、本記事をお読みいただけるとありがたく思う。

 さて、邪馬台国論争について、主に畿内説(大和説)と九州説があることは、広く知られるところである。
 この論争(?)は、古くは新井白石に始まるものの、近代に入って内藤湖南が畿内説、白鳥庫吉が九州説を唱えたことが、現在に至る町おこし(地域のアイデンティティや観光の問題)と絡んだ一大論争の起点と考えればよかろう。
 ごくざっくりとまとめると、畿内説では邪馬台国の中心地を纏向遺跡に比定し、卑弥呼の墓を箸墓古墳にあてる向きが多く、九州説では吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の中枢と推す向きが多い。
 この論争は、考古的な実証研究を推し進めることには意義があったものの、文献学的には、漢文史料を読み慣れない論者による素っ頓狂な読みが提示されたりするなど、あまり実りのあるものではないという印象を受ける。

 たとえば、魏志倭人伝の冒頭から三分の二あたりまでは倭国の風俗や地誌に関する情報で、年代記的記述は景初二年からのごく僅かにすぎない。このわずか三千字に満たない全文のうちで、紀年記事は卑弥呼在位期間における五件に過ぎない。
 また、卑弥呼の没した絶対年代すら明らかでなく、彼女の死後倭国に何が起きたのかはいわゆる「年次未詳記事」として、『史記』等が往々にしてそうするように、条の末尾に挿入されている。
 東洋史学畑から見るに、まずこの魏志倭人伝に対する、基礎的な史料批判がほとんど行われていないように映る。
 箸墓古墳の築造年代が、魏志倭人伝の記す卑弥呼の終見とさほど懸隔がないのはよいとして、それでは『日本書紀』以来、箸墓古墳が倭迹々日百襲姫命の墓であるという伝承とどう整合性を取ればよいのか?

ここから先は

967字

¥ 300

サポートは僕の生存のために使わせていただきます。借金の返済とか……。