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もどかしさや葛藤を抱えながらも、相手に「伝えようとする」こと
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(以下:『志乃ちゃん』)をご存じでしょうか。原作は漫画であり、それが映画化されたものです。
以前から興味はあったのですが、中々見ることができずに月日が流れてしまいました。
しかし今日、なんとなくAmazonPrimeを漁っていた時に『志乃ちゃん』を目にし、(今しかない!)と思って視聴しました。
今回は、視聴後に私が感じたことや、考えたことなどを書いていこうと思います。
あらすじ
高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。
音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。
文化祭へ向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』での吃音
難発の吃音で、特に母音からの発音が苦手という志乃の設定は、原作者・押見修造の実体験をもとに描かれた。リアリティのある吃音描写、そして傷つきながらも自らと向き合い前に進もうとする志乃の姿は、当事者たちからも広く支持されている。
一方で、思春期の葛藤を描いた本作について、“誰にでも当てはまる物語になれば”という原作者の想いから、作品内では意図的に〈吃音〉という言葉は一切使われていない。その意志に、湯浅弘章監督も強く賛同。映画化にあたっても〈吃音〉という言葉は一切使用していない。
映画を見ながら、どこか冷めていた私
言葉がうまく話せない志乃。
それをからかう周りの環境。
それらは見ていて、とても痛々しくて、見るに堪えない状況だった。
私は、冒頭、自己紹介の場面で、志乃をからかう菊池を見ては(ああいるよなあ、どこにでもこういうやつって)と思い、序盤、志乃に対して「緊張しているからじゃない?もっと自分から話しかけに行ってみたら?先生も応援するからさ、頑張ろう!」と的外れな発言をする担任を見ては(そういうことじゃないんだよなあ)と感じた。
『志乃ちゃん』を見ている私は、いつもよりも、どこか冷めていたというか、一歩引いて映画を見ているような感じがしていた。それはどうしてなんだろうな、と思った。
志乃と似たような経験をしたことがあった
もしかしたら、私も志乃とまったく同じではないけれども、似たような経験をしたことがあるからなのかな、と思った。
私の場合、吃音と診断を受けたわけではない。
しかし、中学生だった当時、私が抱えていた精神科なストレスのためか、はたまた極度の緊張状態が続いていたためか。
体調によって、最初の1文字目を発するのにつまったり、先生から音読を指示された時に、流暢に読むことができないことが何度もあった。
今ではそのようなことはほとんど起きていないから、たぶん一過性のストレスが原因だったのかな、と私自身は思っている。
もどかしさや葛藤を抱えながらも、相手に「伝えようとする」こと
『志乃ちゃん』は、「自分が思っていることや感じていることを、相手にうまく伝えることができない」というもどかしさや葛藤を抱えながらも、「何とか頑張って伝えようとする」という点では、それが吃音という症状によるものかそうでないのか、といったことをこの際置いておいたとしても、私はとても共感できるなと感じた。
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そして、物語のエンディングは、私にとって、あまりにも意外なものだった。"そうくるか"と感じた。
きっと見る人によって、この最後の解釈は異なるんだろうなあ、と思った。
とりあえず、色々な人に対して、一度何も考えずに頭を空っぽにした状態で、『志乃ちゃん』を視聴してみて欲しいな、と感じた。
吃音の有無を抜きにしても、自分の気持ちを相手に「『話す・伝える』こと」の必要性、そして、それは相手にとってどのような意味を持つのか、ということを、もう一度考えさせられる作品。
私はそのように感じている。
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読んでくださってありがとうございます。