【多様性】人を好きになることに名前を付けたがる、日本社会
今回は、私が思う、''人を好きになる"ことについて、自分の気持ちを書いていこうと思う。
結論から言うと、私は、世間一般とは、人を好きになるというものがずれていると思う。というのも、私は、必ずしも異性を好きになるわけではない。必ずしも、と書いたのは、幼少期には異性を好きになったことがあるから。同性のことを好きになったこともある。
ただ、今の私は「性別に関係なく、人を好きになる」。この事実に、最近気が付いた。性別に関係なく、というところ。現在の日本では、所謂「多様性」が叫ばれている。ただ、実社会として多様性が容認されているかと言うと、そんなことは無い、と思う。異性を好きになることが普通とか、精神障害を持った人は危ない、だとか。そういう風潮が、まだまだ日本には確実に根付いていると私は思う。
そもそも、普通って何。私にとっては、性別関係なく人を好きになることが普通。でもその普通は、ある人から見れば異端と捉えられてもおかしくないこと。
普通という基準は、結局、相対的でしかないと、思ってしまう。
ある人からみた普通は、別の人からみた異常かもしれない。
話が逸れた。
人を好きになる基準、を考えた時に、私は「努力をし続けている人」「心が惹かれたり、応援したくなったりする人」のことを好きになるのではないか、と気付いた。
例えばアイドル。私はそれこそ、性別関係なくアイドルが好きだ。日向坂46、なにわ男子、SnowMan。彼ら彼女らは、間違いなく「努力をし続ける人」の集団だと思う。その努力の過程をこちら側に見せることは殆どないけれど、ドキュメンタリー映像などを見れば、その努力は一目瞭然としている、と私は思う。
彼ら彼女らが努力をし続ける姿を見て、心が惹かれて、応援したくなる。私が人を好きになる、というのはたぶん、こういうことだ。
もちろん、顔がかっこいいとか、容姿がかわいいとか、そういうことも思う。ただ、それらは、ファーストコンタクト、好きになるきっかけには、ならないように感じる。だから、好きになったあとで、かっこいい○○もいいな、かわいい○○も素敵だな、と思うことはある。
それはアイドルに関係なく、私自身の恋愛観?にしても同じことが言えるように思う。私は、顔がかっこいいという理由では人のことを好きにはならないし、必ずしも異性にときめくわけでもない。その人の内面を見るというか。性格も、結構重要視していると思う。
特に、その人が、努力し続ける人なのかどうか。が、結構私自身の中で重要視している部分でもある。
ただ、努力し続けることがすべて、だとも思っていない。時には、休憩することも大切なことだと、私は思うからだ。人間は、ずっとずっと完璧でいられる訳ではないと思うから。
完璧に近い状態を保てることも、もちろん価値のあることだとは思う。ただ、無理をし続けてまで、そこの地位に上り詰め続けなくてもいいのではないか、とも思うのだ。
自分らしく居られる場所で、自分の気持ちを大切にできるところに、いることができればいい。そう思う。
同じ理由で、同性の人も好きだ。その人は、私が人間性がいいなと感じている人だ。ここで思う。
私が感じているこの「好き」は、何なのだろう。
もうちょっと踏み込んで言うと、私には、友だちと恋人との好きの程度の違いが、よく分からない。私が、その人のことを好きになる、ということがすべてだから。そこに友だちとしてとか、恋人としてとか、名前をつける必要ってあるのかなって思ってしまう。両方、私にとっての大切な人、でいいじゃないか。と思ってしまう。
もちろん名前をつけることで、気が楽になることもあるんだろうとは思う。でも、無理をして名前をつける必要もまた、違うのではないか。私はそう思うのだ。
「人を好きになる」。
シンプルに文字通りの意味。
ただそれが、いちばん難しいことでもあるんだろうなあ。
別に、好きな人って何人いてもいいと私は思う。
こんな私は、好きな人が何人もいる。思い付くだけで、好きな人が5人はいる。
推しは別枠とはいえ、ぱっと考えただけでもこれだけいる。
全部同性の人。
人間性がいいなって私が思う人で、一緒にいて、自分らしく居られる人たち。
なんでそんなに、異性を好きになることを前提として、物事を進めようとするのだろう。
というのも、ややこしくなりそうだけど、私はそもそも、その昔、人のことが嫌いだった。
でも、今は好きだと思うようになって、好きな人がたくさんいる。
人を好きになる、ということに、逐一名前をつけることが、私には分からないなって思う。
友だちとして好き?
恋人として好き?
好きは好き。
それでいいじゃないかって思う。
だって、好きなんだから。
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